マリー・ドレスラー
ウィキペディアから
ウィキペディアから
マリー・ドレスラー(Marie Dressler, 1868年11月9日 - 1934年7月28日)は、カナダ出身の女優。世界恐慌の時期に60歳を過ぎてスターとなった遅咲きの女優。1930年の『惨劇の波止場』で第4回アカデミー賞の主演女優賞を受賞するなど、1930年代前半に活躍するが、人気絶頂の1934年に癌で亡くなった。
死後四半世紀が過ぎた1960年に、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前が刻まれた。
1868年[2]にカナダ・オンタリオ州コーバーグに生まれる。父はオーストリア人(ドイツ系)。14歳で家を出てコーラスガールになり、キャリアをスタートさせる。
1892年にブロードウェイデビュー。その後、ヴォードヴィリアンとしても活動し、1900年代初頭にはヴォードヴィルのスターとなる。
1910年に主演舞台『Tillie's Nightmare』がヒット。旧知の仲だった映画監督マック・セネットが同作を『醜女の深情け(原題:Tillie's Punctured Romance)』(1914年)として映画化する際に彼女を主演に起用。これが彼女にとっての映画デビュー作となる。なお、同作はハリウッド初の長編コメディ映画であり、共演のチャールズ・チャップリンにとっては自らが監督しない最後の作品となる。
その後、同じ役柄による続編的な作品『Tillie's Tomato Surprise』(1915年)や『Tillie Wakes Up』(1917年)など何本かの映画に出演するが、キャリアが飛躍することはなく、1918年には仕事が来なくなる。仕方なくヴォードヴィルの仕事に戻るが、1919年にニューヨークで起きたコーラスガールらによるストライキの代表者に選ばれ、積極的に活動したことからブラックリストに載り、1920年代はニューヨークで仕事をすることが難しくなる。
彼女の窮状を知ったMGMの脚本家フランシス・マリオンは、自ら脚本を担当した『The Callahans and the Murphys』(1927年)の主演にドレスラーを起用する。彼女の可能性に気付いたMGMの大プロデューサー、アーヴィング・タルバーグは、彼女をスターとして再生させることを決める。その結果、徐々に人気が出始める。
彼女をスターとして復活させたのはトーキーである。1930年にマリオンが脚本を担当し、グレタ・ガルボ初のトーキー作品となった『アンナ・クリスティ』での演技が高く評価され、同年の『惨劇の波止場』では第4回アカデミー賞の主演女優賞を受賞する。更に1932年の『愛に叛く者』で第5回アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされる。
1930年から1933年にかけて、主演を含め、様々な映画に出演する他、1933年8月には「タイム」誌の表紙を飾り、同年にMGMが開いた大規模な誕生日パーティがラジオで生中継されるなど、ハリウッドを代表するスターとして人気を集める。
この節の加筆が望まれています。 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.