山本忠司
日本の建築家 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
山本 忠司(やまもと ただし、1923年11月25日 – 1998年7月28日)は、日本の運動選手そして建築家。1952年の夏季オリンピックで男子三段跳びに出場[1]。公務員(香川県庁職員)として香川県庁舎の建設に携わり、後に建築家として香川県の現代建築文化の基礎を築いた[2][3]。
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山本は香川県建築課を率いて地元香川に根づく建築の姿を模索[4]。日本を代表する建築家の丹下健三、芸術家では猪熊弦一郎、イサム・ノグチ、流政之、インテリアデザイナーのジョージ・ナカシマらと協働したほか、大江宏、芦原義信、大高正人、浅田孝ら著名な建築家とも交流し、香川県の公共建築の水準の向上にも努めたことが知られる[5]。一方で自己研鑽にも努め、建築家としての才能を発揮していった[6]。
また、浦辺鎮太郎や松村正恒、神代雄一郎らとの親交を深め、1979年には共同で瀬戸内海建築憲章を発表した。
山本は早い段階から瀬戸内地方固有の伝統や風土に関心を寄せつつ、戦後モダニズム建築の新たな潮流を吸収することで、独特の建築のあり方を問い続けていた[7]。山本の建築は、風土や地域をキーワードに語られることが多く[8]、建築を通して場所や環境をデザインし[9]、地域固有の伝統の形象を解釈して新たに再生させる、といった営みを重ねてきたとされる[6]。