畠山尚順
戦国時代の武将、守護大名。室町幕府 紀伊・河内・越中守護。尾張守、従五位下。子に畠山晴国(播磨守)、畠山基信、細川晴宣、政氏(石垣播磨守。為宮原長経於石垣城生害)、政慶、 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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畠山 尚順(はたけやま ひさのぶ / ひさより[注釈 1])は、戦国時代の武将、守護大名。室町幕府紀伊・河内・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で畠山氏の一派畠山尾州家の当主。また、正式な任官ではないものの、永正元年(1504年)に和泉国に侵攻し両守護(細川元有・細川基経)を敗死させた後は実質的に和泉国の守護として活動・認識されていた[3]。
概要 凡例畠山尚順 / 畠山尚慶, 時代 ...
時代 | 戦国時代前期 |
---|---|
生誕 | 文明7年12月20日(1476年1月16日) |
死没 | 大永2年8月17日(1522年9月7日) |
改名 | 尚順→尚慶→卜山 |
別名 | 次郎(通称) |
戒名 | 勝仙院竜源徳陽 |
官位 | 尾張守 |
幕府 | 室町幕府紀伊・河内・越中(・和泉守護 |
主君 | 足利義尚→義稙 |
氏族 | 畠山氏(政長流尾州家) |
父母 | 父:畠山政長 |
妻 | 細川政春の娘[1] |
子 | 稙長、長経、政国、晴熙、晴国、基信、細川晴宣、大内義興室[2]、徳大寺公胤室、日野内光室 |
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畠山政長の子。稙長、長経、政国、晴熙(はるひろ)らの父。初名は尚順(ひさのぶ/ひさより)、後に尚慶と名乗り、出家して卜山と号す。 なお、後世の系図・軍記では尚長(ひさなが)と改名したとされるが、当時の発給文書で尚長と署名したものは無いので事実ではないと思われる。いずれも「尚」の字は室町幕府第9代将軍・足利義尚より偏諱を受けたものである。通称は次郎、官位は尾張守。法号は勝仙院竜源徳陽。
生涯を通して足利義稙の有力な与党として活動した。明応の政変で父政長を殺され、紀伊での逼塞を余儀無くされたが、流浪の義稙を支持して宿敵の畠山義豊を討ち、細川政元に抵抗し続けた。義稙の将軍復帰後は領国へ下向し、実効支配を確立しようとしたが、紀伊で謀反を起こされ没落。その後出奔した義稙に呼応するも、復帰を果たせぬまま死去した。