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畿内に属する令制国の一つ ウィキペディアから
和泉地方の古名は「チヌ」(茅渟、血沼、珍)といった[1]。
もともとは「泉」一字で表記された。「和泉」の国名は、和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令により国名を二字にする必要があり、佳字の「和」を付与したものにしたためで、「和」は読まない。現在の大阪府和泉市の市名は、かつて市内府中町に国府があったことに由来する。
『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に同国大鳥郡を併せて和泉監が建てられた。元正天皇の離宮(珍努宮、茅渟宮、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であると見られる[注釈 1]。国と異なる特別な機関ではあったが、この時期のものとされる木簡に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、領域名称としては、この当時から「和泉国」と呼ばれることがあったようである[2]。
その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に戻されたが、天平勝宝9歳(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置された。『日本紀略』によれば、天長2年(825年)3月30日、摂津国から東生・西生・百済・住吉の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。
明治4年(1871年)に摂津国との境界が堺大小路、長尾街道(大津道)から大和川に変更された(ただし、長尾街道以北でも、旧 北庄村・西万屋新田は以前から和泉国)。
国府所在地を記した文献は次の通り。
国府跡は、現在の大阪府和泉市府中町の府中遺跡(北緯34度29分7.97秒 東経135度25分45.16秒)とされる。
和泉国内には、僧寺だけで尼寺は設置されなかったと推察されている。
和泉国内において、北部は泉北(せんぼく)、南部は泉南(せんなん)と呼ばれる。
旧和泉国の地域は泉北と泉南に分けられる。なお次の地域は河内国に属した。
旧大鳥郡
旧和泉郡
旧南郡
旧日根郡
※現在では、山滝地区も含めた岸和田市以南を泉南と称することが多い。
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和泉守
鎌倉幕府
室町幕府
戦国時代
織豊期
江戸時代の藩
※1870年(明治3年)に近江三上藩知事であった遠藤胤城が陣屋を日根郡吉見村に移したことで吉見藩が立藩したが、翌年の廃藩置県により廃藩。
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