盧溝橋事件
日中戦争の初戦 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国語: 七七事件; 簡体字: 卢沟桥事变; 繁体字: 盧溝橋事變)は、1937年(昭和12年)7月7日に中華民国北平市(現:北京市)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。1937年7月7日夜、豊台に駐屯していた支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊の将兵が盧溝橋付近の河原で夜間演習中、実弾を撃ち込まれ、点呼時に兵士の1人が所在不明だったため、中国側の攻撃があったと判断して起きたと言われる。比較的小規模な戦闘が繰り返された後、9日には中国側からの申し入れにより一時停戦状態となった[1]が、その後も小競り合いが続き、幾つかの和平交渉が行われたものの(後述)、結果として日中戦争(支那事変)の発端となった[5]とされる。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[6]。まれに、後述する英語名を直訳してマルコ・ポーロ橋事件と表記される場合もある。英語ではMarco Polo Bridge Incident、Battle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる[7][注釈 2]。
盧溝橋事件 | |
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1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図 | |
戦争:日中戦争 | |
年月日:1937年(昭和12年)7月7日 - 7月9日[1] | |
場所: 中華民国 北平市 盧溝橋付近 | |
結果:日本軍の勝利 中国軍第29軍主力は平津まで撤退 日中戦争へ拡大発展 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | 中華民国 |
指導者・指揮官 | |
橋本群 (少将, 支那駐屯軍参謀長, 司令官代行) 牟田口廉也 (大佐, 支那駐屯歩兵第一連隊長) 森田徹 (中佐, 連隊長代理) 一木清直 (少佐, 第三大隊長) |
宋哲元 (二十九軍軍長, 冀察政務委員会委員長) 秦徳純 (二十九軍副軍長) 馮治安 (三十七師師長) 金振中 (三十七師一一旅二一九団三営営長) |
戦力 | |
兵員:5,600 (支那駐屯軍の総兵力, 7/8の交戦戦力は510)[2] | 兵員:100,000 (國防部史政編譯局『抗日戰史』による二十九軍の総兵力、平津地区には40,000) |
損害 | |
戦死10、戦傷30 (7/8)[2] 戦死6、戦傷12 (7/10)[3] |
戦死60余、戦傷120余 (7/8)[2] 戦傷死約150 (7/10)[3] |
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