護良親王
日本中世の皇族・僧侶・武将 (1308-1335) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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護良親王(もりよししんのう、もりながしんのう[注釈 3])は、鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族・僧侶・武将・天台座主・征夷大将軍。還俗前の名は尊雲法親王(そんうんほっしんのう)、通称を大塔宮(正式には「おおとうのみや」/「だいとうのみや」[4])ともいう[3]。一般に後醍醐天皇の第三皇子とされるが、一宮(第一皇子)という説もある[注釈 1]。母は民部卿三位で、北畠師親の娘の資子という説と、勘解由小路経光(広橋経光)の娘の経子という説がある。尊珍法親王の異父弟。興良親王の父。
概要 護良親王, 続柄 ...
護良親王 | |
---|---|
続柄 | 後醍醐天皇第三皇子(一宮説もある)[注釈 1] |
全名 | 護良(もりよし) |
称号 | 大塔宮[3] |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
延慶元年(1308年)[1][注釈 2] |
死去 |
建武2年7月23日(1335年8月12日) |
配偶者 | 正室(親王妃):北畠親房女 |
南方(藤原保藤女) | |
源師茂女 | |
子女 | 興良親王、陸良親王 |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 民部卿三位(北畠師親女の資子 |
役職 |
天台座主 征夷大将軍 二品 |
サイン | |
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元弘の乱で鎌倉幕府を打倒することに主たる功績を挙げ、建武の新政では征夷大将軍に補任。しかし足利尊氏[注釈 4]を疎む護良は、武士を好み彼を寵愛した父とはすれ違いが多く、将軍を解任され、やがて政治的地位も失脚、鎌倉に幽閉される。のち、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。鎌倉宮の主祭神。