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クロード・ゴレッタ(Claude Goretta、1929年6月23日 - 2019年2月20日)は、スイスの映画監督、脚本家、テレビプロデューサーである。兄はレポーターのジャン=ピエール・ゴレッタ。
1929年6月23日、スイスのレマン湖畔ジュネーヴに生まれた。ジュネーヴ大学に進み、法学を修めた。1950年代の初めに、同学で知り合ったのちの映画監督アラン・タネールとともにシネクラブを設立した。その後、渡英し、ロンドンの英国映画協会の講座で学ぶ。タネールもともに渡英し、同協会でフィルム・アーカイヴ関係の仕事をみつけた。
1957年、タネールと共同監督で撮った短篇映画『ピカデリーの夜 Nice Time』がロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞[1]。同作は、ロンドンのピカデリーサーカスのナイトライフを描いたもの。
1958年、スイスに戻り、テレヴィジオン・スイス・ロマンド(TSR)で働き、とくにプロデューサーとしてドキュメンタリー番組『Continents sans visa』を製作した。
1968年、タネール、ミシェル・ステー、ジャン=ルイ・ロワ、ジャン=ジャック・ラグランジュ(1971年脱退、イヴ・イェルサン加入)とともに映画製作会社「グループ5 Le Groupe 5」を設立した[2]。1970年、グループ5とTSRの共同製作により、長篇第一作『Le Fou』を発表。同作はもっともスイス的な映画であるとして、スイス批評家連盟賞を受けた。
単純なコメディと人をデリケートに描くゴレッタのタッチは、すぐに国際的に認められるようになる。次の長篇映画『招待 L'Invitation』で、1973年、第26回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。ついで、1977年、『レースを編む女』で第30回カンヌ国際映画祭でエキュメリック賞を受賞。当時ほとんど無名だったイザベル・ユペールは、このときを境にスターダムへとのぼった。1983年、『マリオ・リッチの死 La Mort de Mario Ricci』は、第36回カンヌ国際映画祭で、主演のジャン・マリア・ヴォロンテが男優賞に輝いた。連続テレビ映画の『シムノン・アワー L'Heure Simenon』の一作、『Der Bericht des Polizisten』は、1987年、モンテカルロ映画祭で賞を受けた。
1990年代前半には、フランス、ベルギー、スイスの放送局が合同で製作した、ブリュノ・クレメールを主演としたテレビ映画『新・メグレ警視 Maigret』シリーズは、ヨーロッパで人気を博した。ゴレッタの映画は、ルイス・ブニュエルとジャン・ルノワールとに関係があると、映画記号論者はくりかえし指摘している。
日本では、『レースを編む女』がかろうじて公開されているだけで、このヌーヴェルヴァーグと同世代のスイス映画の巨匠を、いまだに知ることができていない。タネールらとの「グループ5」時代に国際的な名声を獲得、プロデューサーのイヴ・ガッセー、イヴ・ペイロの目にとまり、早速『Pas si méchant que ça』(1974年)を監督する機会を得るなど、もっともグループ5の機能を効率よく利用でき、大きい作品で勝負できた監督である。 なお、77歳の時に発表した「サルトル 受難の時代」を最後に現役から遠ざかっていた。
2019年2月20日、ジュネーブの自宅で死去。89歳没[3]。
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