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初代ダファリン=エヴァ侯爵フレデリック・テンプル・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド(英: Frederick Temple Hamilton-Temple-Blackwood, 1st Marquess of Dufferin and Ava, KP, GCB, GCSI, GCMG, GCIE, PC、1826年6月21日 - 1902年2月12日)は、イギリスの政治家、外交官、貴族。
初代ダファリン=エヴァ侯爵 フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド Frederick Hamilton-Temple-Blackwood,1st Marquess of Dufferin and Ava | |
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生年月日 | 1826年6月21日 |
出生地 | トスカーナ大公国、フィレンツェ |
没年月日 | 1902年2月12日(75歳没) |
死没地 | イギリス、ダウン県、クランデボイ |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 自由党 |
称号 | 聖パトリック勲爵士(KP)、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、スター・オブ・インディア勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI) 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | ハリオット |
サイン | |
在任期間 | 1884年12月13日 - 1888年12月10日[1] |
女帝 | ヴィクトリア |
在任期間 | 1872年6月25日 - 1878年11月25日[2] |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第一次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1868年12月12日 - 1872年8月9日 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1850年1月22日 - 1902年2月12日[3] |
1826年6月21日、トスカーナ大公国(現イタリア共和国・トスカーナ州)首都フィレンツェに生まれる。父はアイルランド貴族の第4代ダファリン=クランボイ男爵[注釈 1]プリーセ・ブラックウッド。母はその夫人ヘレン(旧姓シェリダン)[5][6]。
イートン・カレッジを経て1844年にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[7]。在学中の1841年7月に第5代ダファリン・アンド・クランボイ男爵位を継承した[5]。
1850年1月に新たに連合王国貴族の「カウンティ・オヴ・ダウンにおけるクランデボイのクランデボイ男爵(Baron Clandeboye, of Clandeboye, in the county of Down)」に叙され[5][8]、貴族院議員に列する[3]。
1854年から1858年にかけて侍従たる議員を務める[5]。1856年のクリミア戦争のパリ講和会議に出席した[9]。1860年から1861年にかけてはオスマン=トルコ帝国領レバノンで起きた虐殺事件に関する調査を行う「シリア特別委員」を務めた[5]。
1864年から1866年にかけては第二次パーマストン子爵内閣のインド担当省政務次官、ついで陸軍省政務次官を務めた[5][6]。
1868年から1872年にかけては第一次グラッドストン内閣のランカスター公領大臣と主計長官を務めた。また1871年には教育についての王立委員会の委員長を務める[5][6]。
ランカスター公領担当大臣辞職を機に外交官に転じる[10]。
1872年から1878年にかけてはカナダの総督を務めた[6]。1879年から1881年にかけては在ロシア大使、1881年から1884年にかけては在オスマン帝国大使を務めた。英仏の半植民地エジプトがウラービー革命で揺れる中の1882年には「エジプト特別委員」に任じられた[5]。エジプト問題討議のためにトルコ(エジプトの形式的な宗主国)・コンスタンティノープルで開催された会議に出席し、首相グラッドストンの指示に従って親英仏的なエジプト副王タウフィークを擁護し、トルコ軍ないし列強諸国の軍隊のエジプト派遣を訴えてウラービー革命を抑え込もうと図った[11]。
1884年から1888年にかけてはイギリス領インド帝国の総督(副王)を務めた。在任中、内政面では小作人の土地占有権を保護する立法を行った。外交面ではフランスとの接近を図るビルマ王ティーボーを危険視し、ビルマ侵攻を行った(第三次英緬戦争)。ビルマ首都マンダレーを占領してティーボー王を捕虜にし、ビルマをインド帝国に併合した[10]。首都マンダレーの王宮は彼にちなんで「ダファリン要塞」と改名された。またシムラーに新しい総督官邸を建立させた[12]。
1888年から1891年にかけては在イタリア大使、1891年から1896年にかけては在フランス大使を務めた[5][6][13][14]。フランス大使時代にはフランス政府とタイや仏領インドシナをめぐる植民地利権交渉にあたった[9]。
1897年から1900年までロンドン・アンド・グローブ・フィナンス・コーポレーション(London and Globe Finance Corporation)の議長を務めた。1902年2月12日にアイルランドのクランデボイで死去。75歳だった[5]。
1841年7月21日に父プリーセ・ブラックウッドの死去により以下の爵位・準男爵位を継承した[5][6]。
1850年1月22日に以下の爵位を新規に叙された[8][15]
1871年11月13日に以下の爵位を新規に叙された。[16][15]
1888年11月17日に以下の爵位を新規に叙される。[17][15]
1862年に陸軍将校の娘ハリオット・ローワン=ハミルトンと結婚。彼女との間に以下の7子を儲ける[5]。
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