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マルグリット・ド・ダンピエール(Marguerite de Dampierre, 1350年4月13日 - 1405年3月16日/3月21日)は、フランドル女伯(マルグリット3世、在位:1384年 - 1405年)及びブルゴーニュ女伯(マルグリット2世、在位:同)。アルトワ女伯、ルテル女伯、ヌヴェール女伯の称号も有した。
フランドル伯ルイ2世とブラバント公ジャン3世の娘マルグリットの長女として生まれた。
1357年、7歳でブルゴーニュ公フィリップ1世(ウード4世の孫で又従兄に当たる)と結婚した。しかしフィリップ1世は4年後に15歳で死去した。その後、ブルゴーニュ公位はフランス王ジャン2世のものとなった。1363年、ジャン2世は息子フィリップをブルゴーニュ公(フィリップ2世、豪胆公)に封じた(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)。
父のルイ2世は、明らかにイングランド寄りの姿勢を見せ、マルグリットとイングランド王エドワード3世の三男ケンブリッジ伯エドマンド(後のヨーク公)との婚約を受け入れていた[1][2]。フランドルは封建制度上はフランス国王に属していたが、経済的には、英本土(ブリテン島)との商品経済関係が成立し、イングランドに従属していた[1]。
当時は英仏百年戦争の渦中であり、マルグリットが将来的に継承権をするフランドルのみならず、アルトワ、ニヴェルネ、ルテル、フランシュ=コンテ等の地域が、イングランド側に渡ることは、フランスとしては阻止しなければならない事態だった[3]。そこで、フランス王シャルル5世(賢王)は、マルグリットとエドマンドが近親であることを理由に、ローマ教皇ウルバヌス5世に働きかけ、婚姻の許可を取り消させた[4][2]。
父ルイは、イングランドからの圧力も背景に、フィリップ豪胆公との縁組に抵抗した[5]。しかし、カペー王家出身の祖母マルグリット・ド・フランスが現在のヴァロワ王家側に立ち、ルイを説得した。こうして1369年6月19日、マルグリットとフィリップ豪胆公は、ヘント(仏:ガン)で盛大な婚礼を挙げた[6]。
1384年の父ルイの逝去により(兄弟らは既に早世していた)、フランドル伯位はマルグリットと夫フィリップが相続した。
2度目の夫ブルゴーニュ公フィリップ2世との間に以下の子女をもうけた。
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