Loading AI tools
ウィキペディアから
ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ(Johann Georg August Galletti, 1750年8月19日 - 1828年3月16日)は、ドイツの歴史学者、地理学者。ギムナジウムの教授をしながら生涯に渡り多数の歴史書や教本を執筆した。その講義中に残した数々の失言が広く語り伝えられている。
イタリア人バリトン歌手の父と宮廷近侍の娘だった母のもと、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国(現在のテューリンゲン州)のアルテンブルクに生まれた[1]。勉強好きだったガレッティはゲッティンゲン大学に進んで法律、地理、歴史を学び、卒業後は住み込みの家庭教師をしながら『トンナ領史』『ラテン語文法教本』『幾何学指南』などの著作を執筆した[1]。1778年より母校であるゴータのギムナジウムで教授となり、以後40年間同校に勤めた[1]。1813年には宮中顧問官の称号を受けた[1]。1818年に退職して隠遁生活に入って以降も著書の執筆に励み、1828年に水腫症によってゴータで死去するまで、『テューリンゲン史』(6巻)、『ドイツ史』(10巻)、『スペイン・ポルトガル史』(3巻)、『トルコ史』(3巻)、『ペルシャ史』(2巻)など40あまりの著作を著した[2]。没後の1858年にはウィーンの出版社から『世界便覧、もしくは全世界の地理的・統計的・歴史的拠説につき、地勢・面積・人口・文化論につき、地理・統計・歴史百科事典』という著書が復刻された[3]。
ガレッティが生涯に渡って執筆した膨大な量の著作は現在では顧みられることはない[3]が、一方彼が講義中に残した多数の失言は彼の死後にまとめられ多くの版を重ねることになった。最初に編纂されたのはガレッティの死の直後の1830年代で、始めは仮綴の手刷り本であったが、1868年にベルリンの書店から約400の失言を収めた『ガレッティアーナ 1750 - 1828』と題する印刷本が刊行された[4]。その後1909年に『ゴータ王立ギムナジウム教授ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ先生の心ならずも口にせし失言録』という銅版画入りの豪華本が刊行され、以後これが底本となった[4]。ただし、これらの失言の中には明らかに後世の創作と見なしうるものも含まれている[3]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.