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元帝 (東晋)
東晋の初代皇帝 ウィキペディアから
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元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。諱は睿(えい)、字は景文。宣帝司馬懿の第四子の琅邪武王司馬伷の孫でその妻を通じて諸葛誕の外曾孫にあたる。また、母方を通して夏侯淵の外玄孫でもある。
生涯
要約
視点
河内郡温県の人。西晋の琅邪恭王司馬覲の子、司馬睿として洛陽に生まれる。生母は夏侯光姫(夏侯威の孫娘)。弟に東安王司馬渾がいる。太熙元年(290年)に父が35歳で急逝して、15歳で琅邪王に封じられる。この年に武帝が崩御し、翌年には八王の乱が勃発する。建武元年(304年)、当時権勢を誇っていた成都王司馬穎の討伐に参戦するが失敗し恵帝と共に鄴で司馬穎の監視下に置かれた。危険から逃れるために鄴を脱出し洛陽で母と落ち合って共に封国の琅邪に戻った。途中、黄河の渡し場を渡るときに見とがめられて留置されそうになった。司馬穎が一族を手元にとどめて監視し、地方に自由に去ることを禁じていたからである。そこに遅れてやってきた従者が追いついて司馬睿の馬を鞭でこづきながら「舎長[注釈 1]よ、政府は貴人の通行を禁じているそうだが、お前も止められたのか」と言って笑って見せた。その様子を見て、役人は通行を許した[1][2]。
司馬穎が東海王司馬越に殺害された直後に、司馬越により永嘉元年に安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられる。その頃朝廷の衰退を予測した近侍の王導の献策に従い、建業に赴く。その際に賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。
永嘉4年(310年)、洛陽の危機状況から寿春にいた征東将軍の周馥は寿春への遷都を計画したが、司馬越は裴碩らに周馥討伐を命じ、懐帝の江南遷都を不可能にした。
永嘉5年(311年)、懐帝が匈奴系である漢(後の前趙)の捕虜となり平陽に連れ去られると、司空の荀藩から推されて盟主となった。江州刺史の華軼が服従しなかったので討伐して江州を支配下に置いた。建興元年懐帝を継いで愍帝が即位すると、丞相・大都督・中外諸軍事となり江東の政務・軍事の全てを取り仕切るようになる。
建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した[注釈 2]。これが、東晋の元帝である。
しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄の王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗と刁協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年(322年)に逆に王敦に反乱を起こされ、刁協やほかにも重臣であった戴淵・周顗らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。
それからほどなくして、48歳で崩御した。
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出生に関する異説
北斉で編纂された『魏書』は、北斉が北方の王朝であることから江南の東晋の正統性を認めておらず、諱の司馬睿(司馬「叡」表記)で呼んでいる。また、牛金の隠し子と主張している[注釈 3]。
宗室
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脚注
伝記資料
関連項目
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