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日本のお笑い芸人、漫才師 (1974-) ウィキペディアから
居島 一平(おりしま いっぺい、1974年〈昭和49年〉10月22日 - )は、日本のお笑い芸人、司会者、ニュースキャスター、漫才コンビ「米粒写経」のボケ担当。「大本営八俵」(だいほんえい はっぴょう)名義でピン芸人としても活動。ワタナベエンターテインメント所属。
ノート:鳥肌実#演説脚本にかんしてに、このページに関する議論があります。 議論の要約:鳥肌実に関する記述 |
東京都江東区亀戸出身。江東区立第三亀戸中学校、都立城東高校卒業。中学2年から落語に傾倒、送別会や謝恩会では「一寸間亭此野野呂(ちょっとまていこのやろ)」の名で高座に上がった[1]。また新聞委員を丸3年つとめ、昭和天皇崩御を扱った号は『毎日中学生新聞』に掲載される。また、高校時代は監督・脚本・主演・主題歌の自主制作映画を撮った事もある。また坂口安吾にも傾倒していた。この頃は授業をサボりまくって映画館に入り浸っており、そのためか学校の成績は悪かった。
「どん底の成績の分際でももし滑り込める大学があるなら、そこで仏教ないしはインド哲学の勉強を、安吾に倣って神経衰弱になるまでしてやろう」という動機から、呉智英の著作にも影響を受けたこともあり種智院大学への進学を考えたが、遠方で下宿代がかかり親に負担をかけるため断念。1993年、駒澤大学仏教学部に進学しサンスクリット文学研究会に入会するがすぐに挫折。大学の雰囲気も肌に合わず3ヶ月で音を上げて中退した[2]。翌1994年、早稲田大学社会科学部に入学し直し、落語研究会に籍を置きつつ太田出版にて編集のアルバイトに精を出す[3]。この時に、落研時代の高座名を現在のピン芸人の別名義である、「大本営八俵」と称し始めた。
ピン芸人として、1996年頃よりお笑いカルトシンガー、元気いいぞうの「自宅ライブ」にレギュラー出演するようになり、1997年1月なかの芸能小劇場での同氏独演会に「鬼毒人(おにどくと)」の名でゲスト出演、これが実質的なプロ初舞台となる。1998年、落研の後輩であるサンキュータツオを誘い、「米粒写経」を結成、浅草キッド主催ライブ「浅草お兄さん会」のネタ見せに合格し、以降高田文夫編集『笑芸人』にて東京漫才ベスト50組にも選出された。
大本営八俵の名義でライブに出演する際には、『戦後生まれの傷痍軍人』という肩書がある。
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