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室町時代中期から後期の公卿。従一位・左大臣 ウィキペディアから
日野 勝光(ひの かつみつ)は、室町時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家真夏流日野家、右少弁・日野重政(政光)の子。官位は従一位・左大臣。日野富子の兄。
永享6年(1434年)、祖父・義資が何者かに暗殺され、父・政光も所領を没収されて出家したため、6歳にして祖父の跡を継ぐ形で家督を相続[注 1]。
嘉吉元年(1441年)11月28日に元服、およそ1年後の嘉吉2年(1442年)11月17日には、7代将軍になったばかりの足利千也茶丸(義政の兄)が元服して「義勝」と名乗り、やがて義勝の1字を受けて勝光と名乗る。
のちに妹である富子を8代将軍・足利義政の正室に入れ、その間に生まれた子・足利義尚の将軍職就任に寄与して、さらに娘を義尚の夫人に入れる。
義尚の将軍就任時、畠山政長が儀式のために管領に就任したものの、終了後に直ちに本国に帰国したため、義尚が15歳になるまで御判は前将軍・義政が、その他の政務は勝光が行うことになった。公家である勝光は幕府の役職には就かなかったが、「新将軍代」と呼ばれた。ただし、公式に用いられた呼称か通称かは不明である[2]。
勝光は御前沙汰に参加して、政所執事の伊勢貞宗の補佐を受けて奉行衆の指揮をしたり、協議の内容を義政に報告して了承を得たりしたりと考えられ、管領の職務を担ったものの、政所の職務に関与する権限や幕府文書を発給する権限はなかったとみられる[3]。
6月15日、薨去。享年48。
勝光は蓄財にはげみ、その権威の大きさから「押大臣(おしのおとど)」と評された。
※日付は旧暦
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