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最上 義秋(もがみ よしあき)は、室町時代中期から戦国時代の出羽国の武将・大名。最上氏第6代当主。山形城城主。右馬助、右京大夫[2]。修理大夫[3][2]。
『寛政重修諸家譜』(寛政譜)などでは満家の三男[1]で、兄・義春の養子[4]、『後鑑』では義春の子としている[3]。母は某氏[2]。
兄弟について、『寛政譜』は、義春、頼宗、義秋の順に記述した上で、「今の呈譜、義春をもつて頼宗が弟とす」と別記している[4]。
文明6年(1474年)、応仁の乱の最中に先代・義春の死去により家督を継ぐ。応仁の乱の一因として斯波義廉と斯波義敏の争いがあり、同族である最上氏は何らかの形で関与したと思われるが、その形跡はない。
文明12年(1480年)12月26日、死去[3](『寛政譜』は「今の呈譜二月」と別記している[2])。松岩芳公隣江院[2]、あるいは隣江院殿松岩榮(栄)公[3]。出羽国山形の松岩寺に葬られた[2]。
中野満基(満家の弟。式部大輔)の子・満氏が養子となり、跡を継いだ[4]。
弟(または息子)[5]の義総は成沢氏に、義旦は杉山氏にそれぞれ分封された。満家の嫡男・頼宗の死と並び、何らかの政変があったとも考えられている。
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