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楠木四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楠木 四郎(くすのき しろう、建久元年(1190年)ごろ)は、鎌倉時代武士御家人。一説に楠木正成で著名な河内楠木氏の遠祖。

生涯

吾妻鏡建久元年(1190年11月7日条に、同日、入京した源頼朝の後陣随兵全46番のうちの第42番の三人組の一人として見える[1]。同僚は忍三郎と忍五郎[1]

14世紀の後醍醐天皇配下の武将楠木正成は橘正成を自称・公称した[2]ため、軍記物太平記』のみならず、洞院公定尊卑分脈』第11巻所収『橘氏系図』[3]といった半公的な書でも楠木氏橘氏後裔の河内国(現在の大阪府東部)土着の豪族であると伝えられてきた。そのため、楠木正成と楠木四郎の繋がりは長らく不明とされていた。しかし、20世紀末以降の研究では、正成は鎌倉幕府の御家人であったという説が有力となっており、四郎が正成の遠祖に位置づけられている[4][5][6]

楠木四郎の本貫(苗字発祥の根拠地)は駿河国入江荘楠木(現在の静岡県静岡市清水区楠)だったと思われる[7]

なお、軍記物承久軍物語』第4巻には承久3年(1221年)の承久の乱で「ならの橘四郎」という北条時房配下の勇士が6月14日の戦いに登場し、この人物は史実における『吾妻鏡』嘉禄2年(1226年)7月1日条にある橘右馬允公高(承久3年6月時房の軍に加わった勲功により勤賞を賜る)に比定される[8]藤田精一は、かなり大胆な推測であると断りつつも、楠木四郎=奈良四郎(本姓讃岐橘氏)=橘公高で、しかも橘公高は橘公長の四男なのではないか、という仮説を立てている[8]。しかし、これは楠木氏=橘氏後裔という前提に立つもので、正成より前の楠木氏が橘氏を名乗ったという証拠がまだ発見されていないため、真偽不明である。

脚注

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  1. ^ a b 吾妻鏡吉川本上 1915, p. 351.
  2. ^ 藤田 1938, pp. 225–226.
  3. ^ 藤原 1903.
  4. ^ 網野 1994.
  5. ^ 新井 2011.
  6. ^ 生駒 2016.
  7. ^ 新井 2011, pp. 57–60.
  8. ^ a b 藤田 1938, pp. 12–23.

参考文献

  • 藤原公定 「橘氏系図」 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』 11巻 吉川弘文館、1903年。doi:10.11501/991593NDLJP:991593https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991593/33 
  • 山田安栄; 伊藤千可良; 本居清造編 『吾妻鏡 吉川本 上巻』 国書刊行会、1915年。doi:10.11501/1920980NDLJP:1920980https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920980 (『吾妻鏡 吉川本』1–16巻)
  • 藤田精一 『楠氏研究』(増訂四版) 積善館、1938年。doi:10.11501/1915593NDLJP:1915593https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593 
  • 網野善彦 「楠木正成」 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞社、1994年。ISBN 978-4023400528https://kotobank.jp/word/楠木正成-55359#E6.9C.9D.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8 
  • 新井孝重 『楠木正成』 吉川弘文館、2011年。ISBN 9784642080668 
  • 生駒孝臣 「【楠木氏と南朝】8 楠木正成は、本当に“異端の武士”だったのか?」、日本史史料研究会; 呉座勇一編 『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』 洋泉社〈歴史新書y 061〉、2016年、167–183頁。ISBN 978-4800310071 
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