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洞院公定

南北朝時代から室町時代初期の公家・公卿。洞院実夏の長男。従一位・左大臣。出家。洞院家6代。『尊卑分脈』の編者 ウィキペディアから

洞院公定
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洞院 公定(とういん きんさだ)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿内大臣洞院実夏の長男。官位従一位左大臣後中園左大臣と号す。太政大臣を務めた洞院公賢の孫にあたる。

概要 凡例洞院公定, 時代 ...

生涯

暦応3年(1340年)11月21日叙爵。ところが後に父と不仲となって廃嫡され、替わりに弟・公頼が後継者とされた。ところが、貞治6年(1367年)5月10日に権中納言となっていた公頼が急死、続いて6月1日には実夏も薨去した。実夏は公頼に支障がある場合にはその弟を当主にするように命じていたが、朝廷は幼少を理由に保留、更に公賢が薨去の際に実夏との家督争いに敗れて吉野に奔った公賢の弟(養子)の洞院実守までが京都に帰還して当主に任ぜられるように動いたために洞院家の家督争いが紛糾した[3]。そのため、室町幕府は、応安3年(1370年)頃に3代将軍足利義満の名で公定に洞院家を継がせて内紛を終結させるように武家執奏を行い、これを受けて応安4年1月19日後光厳天皇によって公定の洞院家門継承の勅裁が下されて洞院家を継ぐことになったのである[4]

以後累進して従一位・左大臣に至る。日記に『洞院公定日記』があり、応安7年(1374年)と永和3年(1377年)の自筆断簡が残存する。永和2年(1376年)頃、諸家の系図を集めて『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』)を編んだ。また、日記の「洞院公定日記」については、当時の南北朝の動乱期の世情を鮮明に描いており、更に太平記の作者といわれる小島法師についても記されている。

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経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

至徳2年(1385年)3月27日、権大納言に還任。

  • 至徳3年(1386年)11月27日、権大納言を再び辞した。
  • 嘉慶2年(1388年)5月26日、権大納言に還任。
  • 応永2年(1395年)1月7日、内教坊別当に補される。同月28日、左近衛大将を兼ねる。3月24日、内大臣に任ぜられる。7月2日には左大将を辞し、8月16日に従一位に昇叙。9月2日には右大臣に転任。
  • 応永3年(1396年)7月24日、左大臣に転任。
  • 応永5年(1398年)12月、左大臣を辞した。
  • 応永6年(1399年)6月15日、出家し法名を元貞とするが、同日中に薨去。
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系譜

脚注

参考文献

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