水本成美
日本の法学者・官僚 ウィキペディアから
日本の法学者・官僚 ウィキペディアから
水本 成美(みずもと なるみ[1]、1831年6月24日(天保2年5月15日)- 1884年(明治17年)7月28日[2])は、幕末から明治期の薩摩藩士、律令学者、法制官僚。元老院議官。字・君之、号・樹堂、通称・保太郎[3]。明治初期法曹界の卓越した律令学者であり復古的法学派の総帥[1]。
江戸二本榎で生まれる[3]。西島蘭渓、松崎慊堂から指導を受け、さらに昌平坂学問所で学ぶ[3]。文久3年(1863年)薩摩藩から招聘され、慶応3年(1867年)夏に鹿児島に移り、重野安繹、今藤君容らと藩律改修に取り組む[3]。
明治維新後、新政府に出仕し明治元年9月25日(1868年11月9日)徴士・議政官史官となり、同年10月25日(12月8日)明律取調を命ぜられた[4]。その後東京に移り、明治2年1月19日(1869年3月1日)昌平学校教授に就任[4]。以後、昌平学校一等教授、大学校一等教授、大学大博士、刑部大判事などを歴任[4]。
明治2年3月20日(1869年5月1日)刑律取調を命ぜられ、村田保、鶴田皓、長野文炳、邨岡良弼等の補佐を受け、新律綱領を編纂した[5]。
1876年4月8日、元老院議官に就任[4]。訴訟法取調委員、民法編纂委員、海上裁判所訴訟規則審査委員、海上裁判所聴訟規則審査委員を務め、1881年10月31日、参事院議官となる[4]。参事院では法制部長となり、諸法律の調査立案を担当した[6]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.