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東京・九段に、数学者・海野幸明の子として生まれる。東京若松専門学校政治経済科卒業。1903年、ドイツ系の貿易会社・横浜セールに入社[1]。1907年、古屋寿会に移り、1910年『日本人種改造論』を著す。同書は日本で初めて本格的に優生学を導入した書とされる。以後、『中央公論』、『太陽』、『日本及日本人』などを含む雑誌に大量の文章を発表する。1912年にアメリカ合衆国に1年間留学し、スタンフォード大学・シカゴ大学で社会学、社会事業について研究する[1]。1917年に古屋寿会を退職[1]。1919年に「優生学の界限に就いて」を記した後、優生学と距離をおく一方、社会事業理論家としての活動を開始。『横浜貿易新報』の客員論説員を経て、仏教大学(のち龍谷大学)教員となる。『社会事業概論』(1927年)や『社会事業学原理』(1930)などの理論書を執筆したほか、社会事業雑誌にも頻繁に論説を発表した。1924年には、建仁寺大統院に設けた海野社会事業研究所が火災にあい、5000冊の書物を失った。1928年、関西社会学院(現・関西学院大学)講師に就任[1]。1930年にはマルクス主義に傾斜する社会事業青年を攻撃する論著を発表し、逆に様々な社会事業雑誌でバッシングを受けた。1931年に立命館大学法学部・経済学部講師、1932年に同志社大学文学部講師・龍谷大学専門部講師に就任[1]。戦中は再び優生学への関心を強めたが、戦後には優生学への言及はない。1952年に龍谷大学文学部教授就任[1]。1953年に『厚生学大綱』を著す。
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