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唐の9代皇帝。睿宗の三男 ウィキペディアから
玄宗(げんそう)は、唐の第9代[1]皇帝。諱は隆基。唐明皇[2]とも呼ばれる。
治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と称えられた善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は政治に倦み楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。
睿宗の三男として洛陽で生まれる。母は徳妃竇氏。隆基には祖母となる武則天が女性皇帝として君臨する武周時代であった。はじめは伯父である皇太子の李弘の猶子となっていた。
705年、20歳のとき、武則天は中宗に禅譲するかたちで帝位を奪われ、武周は一代で消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武則天の娘である太平公主や、武則天の実家である武氏の一族の勢力が残存していた。
中宗の皇后である韋皇后は、武則天をまねて政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋皇后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。
これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して慎重に韋皇后排除を計画、710年に計画が実行され、韋皇后はじめ韋氏一族やその与党を粛清した。ここで武則天によりいったん廃位されていた睿宗が重祚し、隆基はこのときの功績により皇太子に立てられた。
睿宗が武周以前に在位していたときには、隆基の長兄の李憲(成器)が皇太子に立てられたが、李憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった。隆基は即位後も兄に対しては常に敬意を払い、臣下に「やりすぎだ」と批判されたほどであった。その死後には皇帝の位を追贈し「譲」と諡した。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのち、ついに太平公主を殺害して実権を掌握したことで決着を見る。
玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇・宋璟の両宰相である。また、対外的にも北方の外敵を征服して、平和を維持し、経済・文化の発展とともに、輝かしい繁栄の時代を作り出した。
天下泰平の中で玄宗は徐々に政治に倦み始める。737年、寵妃武恵妃の死去により、玄宗は新たに寵愛に足る美女を求めた。740年、玄宗の息子寿王の妃となっていた楊玉環が見いだされ、玄宗の寵愛を得てたちまち皇后に次ぐ貴妃の地位に昇った。いわゆる楊貴妃である。玄宗は楊貴妃に溺れ、長恨歌に「これより皇帝は朝早くには朝廷に出てこないようになった」と歌われるごとく、政務への弛緩が目立つようになった。
政務に倦んだ玄宗に代わって政治を運営したのは、宰相李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。
李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の親族楊国忠と塞外の胡出身の安禄山である。両者は権力の掌握に直結する玄宗夫妻の寵愛をめぐって激しく争った。755年に楊国忠が安禄山を玄宗に讒言したことが契機となり、自身の立場に危機感を覚えた安禄山は、ついに叛乱を起こした。安禄山の安氏と、その部下でその後安氏に代わって叛乱勢力を主導した史思明の史氏との2字を取って、この叛乱を安史の乱という。
安禄山の軍隊はたちまち長安に迫り、軍事力では長安を守れないと判断した玄宗は、蜀の地をめざして逃亡を余儀なくされた。亡命の途上、随従の兵士たちは自分たちをこんな境遇に追いこんだ怒りと恨みを安禄山の政敵である楊氏一族に向けた。楊国忠は兵士たちの手で殺害され、さらに玄宗は兵士たちの要求で楊貴妃に死を賜うほかはなかった(馬嵬駅の悲劇)。混乱のなか、756年、皇太子の李亨(粛宗)は玄宗の同意を得ないまま皇位継承を宣言し、玄宗はこれも事後承諾するしかなかった。譲位して太上皇となった玄宗は、戦乱が収まって長安に戻ったのちも半ば軟禁状態で余生を送り、762年に崩御した[3]。
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前半の善政と後半の堕落。玄宗の功罪をどう評価するかは難しい。節度使が唐だけではなく五代十国時代まで戦乱の原因になったことを考えると、さらに評価は分かれる。ただし、堕落した後半生でも、民へのいたわりを見せていた。長安から蜀へ避難する際、宝物庫を焼き払おうとする楊国忠に「賊が宝物を得られなければ、今度は民への略奪が激しくなる」と言って制止した。また渭水にかかる便橋(長安城西北にある。西渭橋・咸陽橋ともいう)を渡った際、賊の追撃を防ぐために楊国忠が橋を焼き払おうとしたが「あとから逃げようとする士庶たちの路を絶つな」と言って制止させている(『旧唐書』『資治通鑑』より)。
玄宗は、同姓の李氏である老子(李耳)を宗室の祖として尊崇する唐朝のなかでも、とりわけ道教を尊重した。玄宗は、司馬承禎から法籙を受け、自ら『老子』の注釈書である『開元御注道徳経』を撰し、道教の学校である崇玄学を設置し、そこでの試験である道挙の合格者は貢挙の及第者と同格とされた。
芸能の神である西秦王爺は玄宗を神格化したものだとされている(ただし、唐太宗説、玄宗の楽人説、後唐の荘宗や後蜀の後主説もある)。
玄宗が即位する前の702年に日本から派遣された遣唐使の中に僧侶・弁正がいた。玄宗と弁正は囲碁を通じて親しくなった。その後、弁正は唐において病没するが、唐で生まれた息子の秦朝元が遣唐使の一員として唐に戻った際には玄宗は特に手厚くもてなしたと言う(『懐風藻』)。玄宗は日本からの遣唐使に対しては好意的な対応を行っており、日唐関係は安定した時代を迎えた。その背景として玄宗が弁正を介して日本に対して好意的な姿勢を抱いたからとする見方がある[4]。
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