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長恨歌

白居易によって作られた漢詩 ウィキペディアから

長恨歌
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長恨歌」(ちょうごんか)は、中国の詩人白居易によって作られた長編の漢詩である。陳鴻の長恨歌伝によれば、白居易、陳鴻、王質夫の三人が仙遊寺に集まり、唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の逸話を語り合い感嘆した際、王質夫が「夫れ希代の事は、出世の才の之を潤色するに遭ふに非ずんば、則ち時と消没し、世に聞こえず。楽天は詩に深く、情に多き者なり。試みに為に之を歌はば、如何と。」(「世にも奇妙な出来事は、一代の傑出した才人の手で潤色されるのでなければ、時と共に消滅してしまって、世の中に伝わらなくなってしまう。楽天、君は詩に造詣が深く、情に豊かな人だ。試みにこの出来事で歌を作って見てはどうか」という意)と言われたことをきっかけに、「長恨歌」を作ったと書かれている[1]。『源氏物語』をはじめ平安時代の日本文学にも多大な影響を与えた。806年元和元年)、白居易が35歳、盩厔県尉であった時の作。七言古詩(歌行とも言う)(120句)。

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唐詩三百首』中の長恨歌
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あらすじ

漢の王は長年美女を求めてきたが満足しえず、ついに楊家の娘を手に入れた。それ以来、王は彼女にのめりこんで政治を忘れたばかりでなく、その縁者を次々と高位に取り上げる。

その有様に反乱(安史の乱)が起き、王は宮殿を逃げ出す。しかし楊貴妃をよく思わない兵は動かず、とうとう王は兵をなだめるために楊貴妃殺害を許可する羽目になる。

反乱が治まると王は都に戻ったが、楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しまない。道士が術を使って楊貴妃の魂を捜し求め、苦労の末、ようやく仙界にて、今は太真と名乗る彼女を見つけ出す。

太真は道士に、王との思い出の品とメッセージをことづける。それは「天にあっては比翼の鳥[注 1]のように」「地にあっては連理の枝[注 2]のように」、かつて永遠の愛を誓い合った思い出の言葉だった。

詩の内容

さらに見る 漢文, 書き下し ...
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史実との相違

  • 詩中では玄宗と楊貴妃を直接叙述するのではなく、武帝李夫人の物語に置き換えている。これは現王朝に遠慮してのこととする見解がある[注 3]
  • 楊貴妃はそもそもは玄宗の子の一人、寿王李瑁の妃であった。『新唐書』玄宗紀によれば、玄宗は息子の妻を自分のものとするため、いったん彼女を女道士にして、息子との縁を絶った後に後宮に迎えている。太真は楊貴妃の道士時代の名である。

楊貴妃の美

  • 「温泉水滑洗凝脂」「雪膚」 - 温泉の水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりとした白い肌の持ち主だった。
  • 「雲鬢花顔」「花貌」「芙蓉如面柳如眉」 - ふんわりとした髪の生え際、芙蓉の花のような顔だち、柳のようなほっそりとした眉、など顔のパーツも重要であったようだ。
  • 「侍兒扶起嬌無力」「金歩搖」 - 侍女に助け起こされてもぐったり、歩くに連れてかんざしがしゃらしゃらと揺れる、といった感じで、北宋ごろから流行しだした纏足という習慣にも見られるように、いかにもなよなよとした頼りなげな様子が女性らしいしぐさとして愛されたらしい。

日本文学への影響

  • 源氏物語桐壺の巻 - 桐壺帝桐壺更衣の悲恋の描写には、長恨歌を髣髴とさせる部分がたくさんある。当時の貴族層の誰もが知る長恨歌のエピソードを、紫式部は上手く平安王朝風に置き換えて、物語に取り入れた。

長恨歌の主題

長恨歌の主題は長年に渡って議論され続けており、主に世の乱れをふせぐための「諷諭」、玄宗の楊貴妃への愛を中心とした「愛情」のどちらかが主題ではないかと言われている。『長恨歌』を伝記に仕立てたという陳鴻の『長恨歌伝』では、「意者但だ其の事に感ずるのみならず、尤物を懲らし、亂階を塞ぎ、將來に垂らんと欲するならん」(思うに長恨歌は、玄宗皇帝と楊貴妃の事柄に感動しただけではなく、世に禍いを及ぼしかねない絶世の美女を懲らしめ、世の中の乱れを未然に防止し、将来に向けて戒めを示そうという意図もあったという意)[1]と『長恨歌』を「諷諭」として読んでいる。

日本では、「愛情」を主題とするのが、共通の理解となっている。中国では政治を基準にして、文芸作品の価値を考える伝統から「諷諭説」がかなり根強かったが、最近では「愛情」を歌ったものだという説が優勢になりつつあるという[3]

注解

脚注

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関連項目

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