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赤羽別院親宣寺

日本の愛知県西尾市にある寺院 ウィキペディアから

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赤羽別院親宣寺(あかばねべついんしんせんじ)は、愛知県西尾市一色町赤羽にある真宗大谷派寺院である。同派の別院真宗本廟(東本願寺)本山と仰ぐ。本尊は阿弥陀如来。山号は本目山(ほんもくざん)。別名は赤羽御坊(あかばねごぼう)で、地元では御坊さん(ごぼさん)と呼ばれる。

概要 赤羽別院親宣寺, 所在地 ...

沿革

室町時代15世紀中頃、赤羽根城隣接地に本願寺第八代蓮如によって念仏道場が開かれた[1]。約250年の後、蓮如開創の道場は跡地を遺すのみであったが、額田郡上六名村(現愛知県岡崎市)出身の江戸公方御家人本目勝左衛門親宣が、この道場を再興し、両親と自身の菩提寺としたのが、赤羽別院の起源である[1]

元禄13年(1700年)、親宣に対して西尾藩主 土井利忠(利意か)より、赤羽根城跡地を含む念仏道場跡地2950坪が与えられ、一宇が建立される[1]。翌元禄14年(1701年)には、東本願寺第17代真如より、本山直末として「本目山親宣寺」の山号および寺号と絵像本尊(裏被染御自筆)を授与された[1]明和3年(1766年)に親鸞御影、天明2年(1782年)には太子七高僧御影をそれぞれ授与されている[1]寛政10年(1798年)、東本願寺掛所(別院)となり、輪番が置かれる[1]

文政5年(1822年)に庫裏、文政7年(1824年)には掛所に相応しい三河随一の巨大な本堂(間口14間、奥行13間)が再建された[1]。その後、江戸末期から大正時代にかけて講堂、対面所等二十余の諸殿が建立されている[1]。1887年(明治20年)には、特別に由緒があり寺号をもつ「別格別院」の指定を受けた[1]。この年、東本願寺第22代現如が三河巡化の折、当別院に宿泊している[1]

1936年(昭和11年)、東本願寺第23代彰如が、先代現如の13回忌法要を当別院にて親修[1]。1938年(昭和13年)には、杉浦米吉の一寄進によって、三河随一の山門が建立された。隆盛を極めた赤羽別院であったが、1945年(昭和20年)1月13日の三河地震により、庫裡、講堂等二十余棟の諸殿が倒壊した[1]。14年後の1959年(昭和34年)9月には、伊勢湾台風によって本堂が倒壊した[1]。地震、台風によって甚大な被害を受けた赤羽別院であるが、1963年(昭和38年)、寄進により鐘楼と梵鐘を再興、1995年(平成7年)に「お御堂」(本堂)を建立、庫裡等を補修、改装し、落慶法要が厳修された[1]

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境内

交通アクセス

脚注

参考文献

外部リンク

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