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お富の方

徳川家治時代の大奥女中。徳川治済の側室。父は岩本正利(幕臣) ウィキペディアから

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お富の方(おとみのかた)は、江戸幕府10代将軍徳川家治時代の大奥女中で、御三卿一橋徳川家当主・徳川治済側室。11代将軍・徳川家斉の生母である[1][2]。「幕府祚胤伝」では、名を於登美としている[3]

概要 お富の方 / 於登美 / 慈徳院, 生誕 ...

生涯

父は岩本正利[3]。母は大奥の御年寄・梅田の養女。岩本家は、元は紀州藩紀州徳川家に仕え、徳川吉宗の将軍家継承時に随従した紀州系幕臣の家であった。

明和元年(1764年)、本丸の奥勤めとなる[3]安永元年(1772年)3月、徳川治済の望みにより、一橋邸に移り中﨟となる[3]

安永2年(1773年)10月5日、豊千代(家斉)を出産した[3][4]

豊千代は天明元年(1781年5月18日、10代将軍・家治の養子となる[4][2]。この養子縁組は、治済が、於富と関係が深い田沼意次や大奥年寄・大崎などに豊千代の将軍家継嗣擁立を頼み込んだ結果、大奥の支持で決定したという。同年10月頃、豊千代とその婚約者・茂姫江戸城西ノ丸に入った。

天明6年(1786年)に家治が薨去すると、翌年に家斉が11代将軍となり、茂姫は御台所として西の丸から本丸に移り住んだ。於富は将軍生母となったが、主である治済が於富よりも長命であった為、茂姫と共に本丸大奥へ入ることはなく、一橋邸にて治済の側で過ごした[5]

文化14年(1817年)5月8日、死去した[6][1]。享年65[7]東叡山寛永寺・凌雲院に葬られた[6][1]法号は慈徳院種善教成大姉[6](慈徳院殿[1])。

死後

文政11年(1828年)2月1日、従二位追贈された[6]

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子女

(出典:「一橋徳川家記」[8]

脚注

参考文献

外部リンク

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