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そうだその意気
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「そうだその意気」(そうだそのいき)は、1941年(昭和16年)5月25日にコロムビアレコードから発売された国民歌・軍歌・戦時歌謡である。歴史的仮名遣いでは「さうだその意気」と表記される。
本作の詞・曲は著作権の保護期間中のため、日本国著作権法第32条および米国著作権法第107条によりフェアユースと認められる形式の引用を除き、ウィキペディアへの掲載は著作権侵害となります。また、演奏などの著作隣接権についても注意ください。 歌詞全文はTemplate:歌ネットやTemplate:Genius songを使用した外部リンクにより合法的な参照が可能です。 |
概要
作詞は西條八十、作曲は古賀政男、編曲は仁木他喜雄。吹き込みは霧島昇、李香蘭、松原操による。副題は「国民総意の歌」[1]。A面は「海の進軍」(歌唱伊藤久男、藤山一郎、二葉あき子)。
陸軍省より読売新聞社が作製を委嘱され、歌詞の公募を実施した。しかし当選作が見出されず、審査員だった西条が作詞した。
文部省を除く全省の選定を受けたほか、読売新聞社では「海の進軍」と併せて宣伝普及に努め、市中でも多くの機会に歌われたことで戦時期を代表する楽曲の一つとなった。
制定経緯
要約
視点
企画
読売新聞社の吉本明光によれば、「陸軍省防衛課から防諜思想の迅速普及は歌に限る、と云ふことから読売新聞社に作製を依頼された」という[2]。その企画者は当時防衛課員の大坪義勢中佐である。
依頼を受けた読売新聞社では「如何なる性格形態を持つべきかに就て慎重研究した」。そして「官庁撰定歌だから一度はお義理にうたふが後は真平御免と云つた干乾びたもの」ではなく「徹底的に「うたふ歓喜」に満ち溢れたものでなければならぬ」との結論に達したという[3]。
募集
1941年3月21日、読売新聞は社告を掲載し[4]、「今こそ一億一心固く結束して断乎この恐るべき秘密戦撃破の歩武を進めねばなりません」として「聖戦完遂国民総意の歌」を募集すると発表した。後援は外務省、内務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省、文部省、農林省、商工省、逓信省、鉄道省、拓務省、厚生省、企画院、情報局、大政翼賛会、日本放送協会である。当選作一篇には「総理大臣賞をはじめ十一大臣賞、日本放送協会々長賞といふこの種企画に未曾有の賞を贈つてその栄誉を顕彰」し、副賞として公債1000円を、佳作五篇にはそれぞれ記念品を授与するとした。なお当選作および佳作の「著作権は一切本社に帰属」するものとされた。
募集規定では「章節は随意、但し一億国民が朝夕高らかに唱和し得る平明にして而も深刻に第一線の将兵と共に銃後の秘密戦に戦ひつゝある決意を表したもの」[5]、「一億国民が結束して敵性国の秘密戦を撃破すべき決意を昂揚したもの」[6]が求められた。
発表
完成した歌詞と楽譜は5月11日の紙面で発表された[8]。応募総数は5998篇に達したという。ところが各後援当局、陸海軍軍楽隊、作詞家の西条八十、作曲家の山田耕筰、読売新聞社委員による審査の結果、当選作を見出せず、佳作五篇のみを選出した。そして審査会の決議により各賞を辞退、改めて西条に作詞を依頼してこれを選定したという。紹介記事ではレコード吹き込みの様子も伝えられた。
大坪は選評において[9]、本作は「実は「防諜の歌」なのである、防諜の真の心構へを歌に依つて国民に打ち込まうとして募集したのである」と募集の真意を明らかにした。その上で評価基準を列挙し、これに照らして「遺憾乍ら一等当選作に該当すべきものがない」とした。さらに「聞く所に依ると、これまでの一等当選には殆んど原作の面影なきまでに手を加へられて居るものがあるとのことである、私は斯くの如きを最も悪む」と従来の歌詞公募の内実を暴露し、詩人に対していっそうの奮起を促した。
作製
西条は「誰にも判るやさしい字句で先づ国民感謝の感情にうつたへ、後半その調子を次第に力強く盛りあげて一億国民の鉄の如き意志を表はさうとした」とのねらいを述べた[10]。また古賀は「結局平易であつて力強いリズムにより国民の誰の心にも浸みこんで感情の底から奮起さすやうな作曲をと努力」したと述べている[11]。
普及
5月14日、読売新聞社は陸軍省と内務省の後援により、後楽園球場にて「発表会」を催した[12]。参集した聴衆は二万人を超えたという。陸軍省からは兵務局長の田中隆吉が挨拶に立った。
発表会では陸軍軍楽隊による行進曲版の吹奏、吹き込み歌手らによる歌唱のほか、内田栄一による歌唱指導、六代目藤間勘十郎社中による「艶かな舞踊」、コロムビア歌手らによる歌謡曲集、入場者全員での合唱が行われた。先に読売新聞社が選定した「海の進軍」も歌われた。また行進曲と歌の発表は録音され、同夜のAKにて放送されたという。
「そうだその意気」は文部省を除く全ての省の選定歌となり、文部省の検定を受けて各種学校の音楽用教材にもなった[13]。
吉本によれば、この歌は8月下旬には「全国的に普及した」という[14]。吉本は、その普及の背景として「七月から八月にかけて全国民が空襲必至を決意したあの時代の圧力」とともに、大坪ら「推進者の熱と力」を指摘している。大坪は自ら歌唱指導をしたり音楽巡回指導会において独唱を披露したりと、国民歌普及の実践に努めていた。また警視庁で厚生音楽や産業体育の指導を担当する中野完は、管下の産業報国会支部に対する音楽巡回指導において「そうだその意気」を積極的に利用していた。
以後も「一億の皆唱を博し防諜精神の昂揚とゝもに厚生音楽としても貢献」するなど広く歌われ、1943年には読売新聞社が防諜協会から軍刀と色紙を贈呈されている[15]。
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出典
関連項目
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