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海の進軍
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「海の進軍」(うみのしんぐん)は、1941年(昭和16年)5月25日にコロムビアレコードから発売された国民歌・軍歌・戦時歌謡。レーベルの記載は「国民歌」、商品番号は100285。また、同名の斉藤丑松作曲の行進曲。
概要
詞は海軍省と読売新聞が公募し、一般人の海老沼正男の詞「海国魂の歌」が選ばれた(採用にあたり改題・改訂)。曲は古関裕而、編曲は奥山貞吉によってつけられた。吹き込みは、伊藤久男、藤山一郎、二葉あき子の3人によって行われた。B面は「そうだその意気」(歌唱霧島昇、李香蘭、松原操)。
またこの歌曲とは別に、海軍軍楽隊の斉藤丑松が同歌詞で別曲の「海の進軍」を、さらにそれをトリオに入れた行進曲「海の進軍」を作曲している。
制定経緯
募集
1941年3月3日、読売新聞は社告を掲載し[1]、「帝国海軍の威力を中外に宣揚すると共に“浮城の精鋭”に対し一億国民の心からなる激励の誠をいたすため、海軍省、情報局、大政翼賛会後援の下に「海国魂」(仮称)の歌詞を」公募する旨を発表した。当選作は「海軍省撰定歌として」「海事思想の普及を計らんとするもの」とされた。
規定では「章節は随意、但し抽象的な歌詞でなく出来るだけ具体的に帝国海軍の偉力を讃へ海の勇士の労苦を謳つたもの」を求めた。当選作一篇には海軍大臣賞を設け、副賞として公債1000円を、また佳作五篇にはそれぞれ記念品を授与するとした。なお当選作および佳作の「著作権は一切本社に帰属」するものとされた[2]。締切は3月25日、発表は当初4月2日とされたが、のちに延期されている[3]。
発表
当選作「海の進軍」は4月9日の紙面で発表された[4]。応募数は4906に達したという。審査にあたったのは海軍省報道部の田代格中佐、海軍省軍務局の狩野雅信、海軍軍楽隊の内藤清五隊長、情報局の上田俊次海軍機関中佐、井上司朗、宮沢縦一、日本放送協会業務局長関正雄、作詞家の西条八十、作曲家の山田耕筰、読売新聞社であった。紹介記事では「海軍当局」が「極めて優秀な作品」と称賛したほか、西条は「最近輩出する単にいかめしい抽象的な辞句を羅列した国策歌の中で十分異色があり大衆への浸潤性を多分に持つものと信ずる」と評価した。
当選者の海老沼は会社員業の傍ら独学で詩歌を勉強し、前年「二千六百年奉祝歌」の公募で「二等に入賞したのをはじめ、これまで五、六回佳作に入賞したことがある」アマチュア作詞家だった。本作の投稿に際しては「従兄が帝国海軍の第一線に活躍してゐるのに発奮、夜を徹して想を練り僅か一日で書きあげた」という。
楽譜は5月2日の紙面で発表され[5]、レコード吹き込みの様子も伝えられた。「海軍省撰定歌」とするにあたり原詞の第三節の改訂、第四節の削除が行われている。
普及
5月7日、読売新聞社は海軍省の後援により、日比谷大音楽堂にて「発表大演奏会」を催した[6]。参集した聴衆は一万人に上ったという。海軍報道部平出英夫大佐は挨拶で「かつて音楽は贅沢品と考へられてゐましたが、いまでは生活必需品であり軍需品であります」「真の音楽こそ前線勇士を慰問激励するものです」と述べ、「戦時下音楽の重要性を説い」た。
発表会では、海軍軍楽隊による行進曲版の演奏、吹き込み歌手らによる歌唱のほか、藤山一郎による歌唱指導、花柳かなめ、鈴木恵子による舞踊、コロムビア歌手らによる「愛国歌謡曲集」、入場者全員での合唱が行われた。
その後も読売新聞社では「そうだその意気」と併せて普及宣伝に努め、市中でも各種アトラクション[7][8]や巡回歌唱指導[9][10]に利用された。
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脚注
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