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アドナン・アル=ケイシー

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アドナン・アル=ケイシー
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アドナン・アル=ケイシーAdnan Al-Kaissie1939年3月1日 - 2023年9月6日[1])は、イラクバグダッド出身のプロレスラー

概要 アドナン・アル=ケイシー, プロフィール ...

インディアンギミックビリー・ホワイト・ウルフBilly White Wolf)、アラブ人ギミックのシーク・アドナン・アル=ケイシーSheik Adnan Al-Kaissie)などのリングネームを名乗り、アメリカ合衆国の各メジャー団体で活躍した[2]

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来歴

要約
視点

イスラム教イマームを父に持ち、10代の頃に家族でアメリカのオクラホマ州に移住。州立大学でレスリングの選手となり、1959年アドナン・ケイシーの名義でプロレスラーとしてデビューする[2]

その後、インディアンギミックベビーフェイスビリー・ホワイト・ウルフに変身。1960年代太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト地区を主戦場に、ハワイテキサスでも活動。1962年11月21日にはキング・イヤウケアを破り、ハワイ版のNWA USヘビー級王座を獲得[3]1963年は7月5日にマッドドッグ・バションからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を、9月24日にマーク・ルーインからNWAテキサス・ヘビー級王座をそれぞれ奪取している[4][5]

1964年4月、チーフ・ホワイト・ウルフのリングネームで日本プロレスの第6回ワールドリーグ戦に初来日[6]。途中参加のため公式リーグ戦には出場しなかったが、ジャイアント馬場豊登とシングルマッチで対戦した[7]。アメリカ国外ではオーストラリアにも遠征しており、1967年2月11日にレイ・スティーブンスを下してIWA世界ヘビー級王座を獲得[8]1969年1月には国際プロレスへの参戦で再来日を果たし、1月28日に東京の足立区体育館にて、ビル・ロビンソンIWA世界ヘビー級王座に挑戦した[9]

1974年8月、本来の出自であるアラブ人ギミックのシーク・オブ・シークス・オブ・バグダッドThe Sheik of Sheiks of Baghdad)を名乗り、ヒールのポジションで新日本プロレスに登場。フレッド・ブラッシーがマネージメントしていたニコリ・ボルコフとタッグを組み、9月10日に愛知県体育館にて、アントニオ猪木&坂口征二の黄金コンビが保持していた北米タッグ王座に挑戦した[10]

帰米後はベビーフェイスのビリー・ホワイト・ウルフに戻り、ニューヨークWWWFチーフ・ジェイ・ストロンボーとインディアン・タッグを結成。ジ・エクスキューショナーズ(1号=キラー・コワルスキー、2号=ビッグ・ジョン・スタッド)との抗争の末、1976年12月7日にWWWF世界タッグ王座を獲得、翌1977年9月27日にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジに敗れるまでタイトルを保持した[11]。WWWFを離れてからはハワイを主戦場とし、キラー・トーア・カマタリッパー・コリンズと抗争を展開した。

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シーク・アドナン・アル=ケイシー(1985年)

1981年、アラブ人ヒールのシーク・アドナン・アル=ケイシーに変身してAWAに登場。クラッシャー・ブラックウェルを配下に引き入れ、シーク・スタイルのアヤトーラ・ブラックウェルを名乗らせる。その後、AWAの悪徳マネージャーだったボビー・ヒーナンから「アラブ・マネー」でケン・パテラのマネージメント権を購買し、ブラックウェルのパートナーに起用。自らはプレイング・マネージャーとなって彼らを指揮し、1983年6月から1984年5月までAWA世界タッグ王座に就かせた[12]。以降もマネージャーとしてAWAに定着し、ブルーザー・ブロディアブドーラ・ザ・ブッチャーなど特別参戦の大物選手も担当。AWA末期の1990年まで、リングサイドに欠かせない存在であり続けた。

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サッダーム・フセイン(左)とアドナン(1970年代初頭)

1990年下期、AWAでの抗争相手でもあったサージェント・スローターのマネージャーとして、ジェネラル・アドナン(アドナン将軍)を名乗ってWWFに登場。同時期に勃発した湾岸戦争を追い風に「サッダーム・フセインの友人」[13]という設定でスローターと共に大ヒールを演じる。後にイラン出身のアイアン・シークもカーネル・ムスタファ(ムスタファ大佐)の名で加わり、ハルク・ホーガンアルティメット・ウォリアーを相手に「WWF版湾岸戦争」を繰り広げた[14]

WWF退団後は1994年頃にシカゴのAWFでカウボーイ・ボブ・オートンらのマネージャーを担当[2]。居住地のミネソタでは、ケン・パテラと共同でインディー団体WAWA(ワールド・オールスター・レスリング・アライアンス)をプロデュースした[2]2005年には自伝 "The Sheikh of Baghdad: Tales of Celebrity and Terror from Pro Wrestling's General Adnan" が編集者との共著で出版された[15]

2023年9月6日、84歳で死去[1]

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得意技

ビリー・ホワイト・ウルフ
シーク・アドナン・アル=ケイシー

獲得タイトル

以下はすべてビリー・ホワイト・ウルフ名義での戴冠。

NWAミッドパシフィック・プロモーションズ
パシフィック・ノースウエスト・レスリング
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:2回[4]
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:4回(w / シャグ・トーマス、ペッパー・マーティン、ベアキャット・ライト、ジョニー・ウォー・イーグル)[17]
NWAビッグタイム・レスリング
ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション

マネージャー担当選手

以下はシーク・アドナン・アル=ケイシーに変身後、マネージャーを担当した主なレスラー。

アメリカン・レスリング・アソシエーション
ワールド・レスリング・フェデレーション
アメリカン・レスリング・フェデレーション

脚注

外部リンク

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