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アレクサンダー・クッシング

アメリカ合衆国の弁護士 (1913-2006)。スコー・ヴァリー・スキー・リゾートの創業者 ウィキペディアから

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アレクサンダー・コクラン・クッシング(Alexander Cochrane Cushing、1913年11月28日 - 2006年8月19日)は、アメリカ合衆国弁護士である。カリフォルニア州スコーバレースコーバレー・スキーリゾートを開発し[1][2]1960年の冬季オリンピックの誘致に尽力したことで知られる。

概要 アレクサンダー・クッシング, 生誕 ...
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若年期

クッシングは1913年11月28日ニューヨークで生まれた。父ハワード・ガードナー・クッシング(Howard Gardiner Cushing, 1869–1916)[3]は著名な芸術家だったが[4]、クッシングが3歳の時に亡くなり、病弱な母エテル(Ethel Cushing, 1869–1916, 旧姓コクラン(Cochrane))の手で育てられた[5]。姉にオリビア・デュラニー・クッシング(Olivia Dulaney Cushing, 1904–1908)と芸術家の[6][7]リリー・エメット・クッシング英語版(Lily Emmet Cushing, 1909–1969)[8][9]が、兄にハワード・ガードナー・クッシング・ジュニア(Howard Gardiner Cushing, Jr., 1906–1979)がいる。兄ハワードは、フレデリック・ロスロップ・エイムズ・ジュニア英語版の娘のメアリーと結婚した[10][11][12]

1925年[13]、母はウォール街の証券業者の[14][15]ジェームズ・デニソン・ソーヤー(James Denison Sawyer, 1875–1943)と再婚した[11]。子供の頃、クッシングは、東70番街にあるウィリアム・アダムズ・デラノ英語版が設計した家に住んでいた[16]。デラノはクッシングの代父だった。

クッシングの父方の曽祖父ジョン・パーキンス・クッシング英語版は、中国を相手に商売をしていた商人だった[17]。いとこのアレクサンダー・コクラン・フォーブズ(Alexander Cochrane Forbes)は、外交官ウォレン・デラノ・ロビンスの娘のイレーネ・ヘレン・ロビンス(Irene Helen Robbins)と結婚した[18]

父が早くに亡くなり母が病弱だったため[19]、クッシングは若年期の大半を寄宿学校のグロットン・スクール英語版で過ごした。1936年にハーバード大学ハーバード・カレッジ英語版を、3年後の1939年にハーバード・ロー・スクールを卒業した[1][5]

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キャリア

ロー・スクール卒業後、グロットン・スクールの同級生のスチュワート・アルソップ英語版の推薦で国務省に3年間務め[17]、その後、司法省に短期間勤めた。司法省を辞めた後は、ニューヨークのデービス・ポーク法律事務所英語版に入った[20]

真珠湾攻撃による対日開戦を受け、クッシングはアメリカ海軍に入隊し、クオンセット・ポイント基地英語版副操縦士としての訓練を受けた。第二次大戦中は、南米と太平洋で海軍航空輸送サービス英語版に5年間従事し、終戦までに少佐まで昇進した[20]。終戦の9か月後に退役し、デービス・ポーク法律事務所に戻った[5][17]

スコーバレー

ある年の冬、クッシングはシエラネバダ山脈にスキーに出かけ、その途中でタホ湖の北岸から7マイルの距離にあるスコーバレーを訪れた[17]。クッシングは、この地がスキーリゾートとして良い立地であると感じ、元スキーチャンピオンで、1940年代にユニオン・パシフィック鉄道から一帯の土地640エーカー (2.6 km2)を購入していたウェイン・ポールセンにスキーリゾート開発のパートナーシップを持ちかけた[2]。クッシングは、自費で14.5万ドルを拠出したほか、ローレンス・ロックフェラー英語版から27.5万ドルの出資を受け、1949年にスコーバレー・スキーリゾート(現在のパリセーズ・タホ)の事業を立ち上げた[5]

1954年から、クッシングは国際オリンピック委員会(IOC)に対し、1960年に開かれる第8回冬季オリンピックをスコーバレーに誘致するためのロビー活動を開始した[21]。スコーバレーのほかに西ドイツガルミッシュ=パルテンキルヒェンオーストリアインスブルックスイスサンモリッツといった有名なスキーリゾートも立候補したが、スコ―バレーは全くの無名であり、当時簡易なスキー場くらいしかなかった[22]。しかし、1955年にパリで開かれたIOC総会では、スコーバレーが開催地に選ばれた。組織委員会にはクッシングも参加し、350ドル(当時)の巨費を投じてアイスアリーナとスケートリンクが作られた[23]。オリンピック誘致の功労者として、クッシングは1959年の『タイム』誌の表紙を飾った[16]

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私生活

クッシングは生涯に3度結婚している。

最初の結婚は1938年で[24][25]、相手はロバート・ベイヤード・"フルトン"・カッティング(Robert Bayard "Fulton" Cutting, 1886-1967)の娘の[26]ジャスティン・ベイヤード・カッティング(Justine Bayard Cutting, 1918-2003)だった[26][27]。ジャスティンの祖父ロバート・カッティング(Robert Cutting, 1852-1934)は、クーパー・ユニオンの学長やメトロポリタン・オペラ協会の会長などを務めた[28]。ロバート・カッティングの母は、詩人のイリース・ジャスティン・ベイヤード英語版である。ジャスティンとの間に以下の3人の娘をもうけたが、1965年に離婚した[2]

  • ジャスミン・ベイヤード・クッシング(Justine Bayard Cushing) - 装飾家[29][30][31]
  • リリー・クッシング(Lily Cushing) - リフト・エンジニアリング英語版を創業したポーランド人移民で、元スキー選手のJanek Kunczynskiと結婚した[32]
  • アレクサンドラ・オリビア・コクラン・クッシング(Alexandra Olivia Cochrane Cushing) - コビントン・アンド・バーリング法律事務所の弁護士のフィリップ・キング・ハワードと結婚した。ハワードは、アメリカ独立宣言の署名者ジョサイア・バートレットの末裔である[33]

1970年にウィリアム・ウッドワード・シニア英語版の娘でウィリアム・ウッドウォード・ジュニアの姉のエリザベス・オグデン・プラット(Elizabeth Ogden Pratt, 1907–1985)と結婚した[34][35]。エリザベスはそれまでに2度結婚し、1度の離婚と1度の死別を経験していた。エリザベスとは1985年に死別した。

1985年、スコーバレーの開発用地に関する法律相談を行っていたときに、3人目の妻となるナンシー・R・ウェント(Nancy R. Wendt)と出会った。ナンシーとは1987年に結婚した。ナンシーは、ハーバード・ロー・スクールに3年間在籍した後、1975年にサウスカロライナ大学で法学博士号を取得した[5][36][37]

クッシングは2006年8月19日ロードアイランド州ニューポートの別荘で死去した[1][20]

栄誉

1999年、全米スキー殿堂英語版に殿堂入りした[5]

脚注

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