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インスブルック

オーストリアの都市 ウィキペディアから

インスブルック
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インスブルックInnsbruck [ˈɪnsbʁʊk] ( 音声ファイル))は、オーストリア共和国の都市で、チロル州の州都である。風光明媚な観光地として、またウィンタースポーツの地として世界的に知られており、1964年1976年冬季オリンピックが開催された。この名前は、「イン川の橋」という意味である[1]

概要 インスブルック Innsbruck, 位置 ...

イタリアドイツに抜ける交易路の重要な中継地点である。またハプスブルク家の政治中枢となるホーフブルク宮殿(別名:インスブルック王宮)が置かれ、ハプスブルク本家出身の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の治世時には神聖ローマ帝国の都とされ文化と政治の中枢となった。

面積104.91 km²、2016年1月の人口は13万人強であり、オーストリアで5番目に人口が多い都市である。インスブルック都市圏全体の人口は約29万人。さらに約3万人が非定期居住者として登録されている。

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地勢

イン川沿いに位置する。インスブルックという地名自体が、「イン(川)の橋」という意味になる。ドイツに至るためのアールベルク峠、イタリアに至るためのブレンナー峠に近いため、交易上の中継都市として重要な役割を果たした(これらの経路は交易路帝国街道英語版の一部である)。近隣の都市としては、約95キロ北にドイツのミュンヘン、85キロ南にイタリアのボルツァーノが位置する(直線距離、実際の走行距離はブレンナー峠を越えて118km)。市街部の標高は約574mである。

歴史

要約
視点

石器時代初期に人が住んでいた形跡が残されており、古代ローマ時代まで人が継続的に住んでいた様子が確認されている。4世紀の古代ローマ時代には、Oenipons と呼ばれ、現在でも地名として残る軍事基地 Veldidena が重要な交易路を守るために置かれた。当時のインスブルックを指す Oeni Pontum もしくは Oeni Pons という名前は、ラテン語で「イン川( Oenus )の橋( pons )」から来ている。

1167年/ 1183年頃の史料によれば、この町はアンデクス伯ベルトルト5世(Graf Berthold V. von Andechs; -1204.8.12. 聖エリーザベト の母方の祖父)により建設され、イン川の北岸に橋(市名の由来となる)が架けられ、市場集落(Marktsiedlung)が置かれた。谷の南側はプレモントレ修道参事会修道院ヴィルテン(Prämonstratenserkloster Wilten)が所有していたが、ベルトルトは1180年今日の旧市街(Altstadt)にあたる土地を獲得した。最初に、このイン川の南に位置する集落中心部に周壁がめぐらされた。1187年1204年の間には市の全域(der gesamte Burgfrieden)が自治権(städtische Rechte)を獲得し、1205年には≫burgum≪と、1209年 には≫civitas≪と記された。インスブルックの獲得した権利は、1239年アンデクス・メラニエン大公オットー2世(Herzog Otto II. von Andechs-Meranien)発行の文書に伝えられている。1267年の史料に見られる市章(Stadtsiegel)は1248年以前に成立されたと思われる。アンデクス伯家が1248年に途絶えると、インスブルックはチロル伯アルベルト4世(Graf Albert IV. von Tirol)、さらにヒルシュベルト伯ゲプハルト(Graf Gebhard von Hirschberg)と渡り、1263年にはゲルツ・チロル伯爵家(Grafen von Görz-Tirol)の所有するところとなった。1281年に南側の新市街(Neustadt)へと広がったインスブルックは、約298 haとなった。1363年チロルがオーストリア大公家(Herzoge von Österreich)に渡ったことはインスブルックにとって極めて大きな意味を持った。市は1420年頃大公家の本拠地かつチロルと前部オーストリア(Vorderösterreich)の政治の中心地となった。インスブルックはアウクスブルクイタリアを結ぶ街道の要衝として15世紀以後文化的・経済的に繁栄した。皇帝マクシミリアン1世の時代の人口は約5000人であった[2]

マクシミリアン1世の治世時には都が置かれ、各地から商人が往来する繁栄をした。チロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、当地に武器工場を建て、最新の甲冑フリューテッドアーマー)を開発、製造させた。

1703年7月26日(聖アンナの日)チロルの民兵組織は、スペイン継承戦争の間マックス・エマヌエル選帝侯率いるバイエルン軍の侵入に立ち向かい撃退したが、それを記念してインスブルックの目抜き通り「マリア・テレジア通り」には、「聖アンナ記念柱」(Annasäule)が建てられている[3]

1756年 8月18日 マリア・テレジアの夫フランツ1世が、市内のホーフブルク王宮にて急死した。

ナポレオン戦争の時代、チロルはバイエルンの支配下に置かれたが、1809年4月に武装蜂起を起こす。この時、後に「チロルの英雄」として現在にいたるまでチロル人の誇りとなっているアンドレアス・ホーファー英語版率いる農民軍は数度にわたってフランス・バイエルン連合軍を打ち破った。ホーファーの大理石像と遺骸は、マクシミリアン1世の孫、フェルディナント1世の完成させた宮廷教会(Hofkirche)にある。なおこの教会は元々、マクシミリアン1世の霊廟(大理石の棺を皇帝ゆかりの人のブロンズ像28体が囲む壮麗なもの)を設置するために建てられたものである[4]

1848年にもウィーン三月革命が起こった際、一時的に王宮がインスブルックに移された。

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気候

要約
視点

ケッペンの気候区分によると、インスブルックの気候西岸海洋性気候(Cfb)に属する。

北緯47度の山岳地帯に位置するにもかかわらず、北大西洋海流の影響により、冬季の気温が高い。低緯度である北緯35度から北緯40度に位置する飛騨地方長野県東北地方内陸部よりも冬季の平均最低気温が高く、降雪量も少ない。

さらに見る インスブルック空港の気候, 月 ...

文化

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フェルディナント2世の居城であり、芸術史・博物館においても貴重な驚異の部屋を持つアンブラス城
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ハプスブルク家が居住したホーフブルク宮殿。ウィーンにあるシェーンブルン宮殿ホーフブルク宮殿と合わせオーストリアの三大重要文化建築物とされている[7][8]

舞踏会や演劇といった芸術活動が非常に盛ん。ティロル州立劇場は1629年建築の重厚な古典様式の劇場であり、オペラ、演劇、ミュージカルなど様々なプログラムを上演している。ティロル州立博物館 (Tiroler Landesmuseum) はフェルディナント2世にちなんでフェルディナンデウム (Ferdinandeum) と呼ばれており、考古学、楽器、絵画等の展示を揃えた総合博物館である。

大学は1669年創立のインスブルック大学 (Universität Innsbruck) と医科大学があり、2万人以上の学生が学んでいる。

歴史遺産

旧市街に黄金の小屋根(de:Goldenes Dachl)と呼ばれるバルコニーがあり、マクシミリアン1世がチロル公国を継承後、6年目の1496年にこの建物を完成させ、バルコニーから祭りを見物した。この屋根には2,657枚の金の瓦が使用され、当時のチロルの富と繁栄の象徴となった。

インスブルック王宮教会にはマクシミリアン1世の棺があり、生涯をたどった大理石のレリーフが掘り込まれている。アーサー王皇帝ルドルフ1世皇帝フリードリヒ3世ブルゴーニュ女公マリージグムント大公皇妃ビアンカフィリップ美公カスティーリャ女王ファナら28体の彫像がマクシミリアン1世に参列するという設定で棺の周りに並べられ、棺の上には神に祈るマクシミリアン1世の像が載っている。

舞踏会

チロル州ワルツの発祥の地ということもあり、インスブルックは舞踏会の街でもある。人口密度と比較すればウィーンより多くの舞踏会がカーニバル(ファッシング)シーズン中に開かれている。

  • 商工会議所舞踏会
  • 夏の宮廷舞踏会
  • ポーライ舞踏会
  • インスブルック大学舞踏会
  • 民族衣装組合の舞踏会
  • 山岳団体舞踏会
  • ムッラー舞踏会
  • 整体師の舞踏会

などがある。

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スポーツ

インスブルックは、ウィンタースポーツの地として有名である。この地では、1964年1976年冬季オリンピック1984年1988年に2大会連続で冬季パラリンピック2012年に冬季ユースオリンピックが開催された。さらに毎年1月3日前後には2度の五輪で使用されたベルクイーゼルシャンツェスキージャンプ週間の第3戦が開催されている。

姉妹都市

インスブルックは以下の都市と姉妹都市締結をしている:

交通

要約
視点

空港

インスブルック国際空港(空港コードINN)

インスブルックの旧市街から西に約5キロメートル離れた、イン川沿いのチロル州インスブルック市内のクラーネビッテン地区(Kranebitten)にある国際空港。オーストリア航空(準ハブ)、オーストリアン・アローズ(旧チロリアン航空)、ウェルカム・エアーエアー・アルプスチロリアン・ジェットサービスなどがこの空港をベースに多くの路線を開設している。

2009年にはヨーロッパの21都市をインスブルックと結び、利用者数は95万7千人であった。また、夏と冬の観光ハイシーズンにはヨーロッパのみならず、中東北アフリカからのチャーター便も数多く発着している。冷戦期は小さな空港であったが、現在はアルプスの中央に位置し、ヨーロッパの様々な都市を結ぶハブ空港として大きく成長している。日本からはウィーンフランクフルトロンドンアムステルダムモスクワコペンハーゲンを経由して入ることができる。

インスブルック市の中心部とはインスブルック市交通局の路線バスFによって結ばれており、市内中心部にあるインスブルック中央駅までは約20分である。

高速道路

インスブルックから東西に延びるインタール高速道路(高速道路A12)はオーストリアで最も利用されている主要な高速道路の一つである。インスブルックからクーフシュタインザルツブルクミュンヘンドイツ)、ウィーン方面へは、東に延びるインタール高速道路を利用しアクセス可能である。イムストサンクト・アントンブレゲンツリヒテンシュタインチューリッヒスイス)方面へは、西に延びるインタール高速道路を経由してアクセスできる。

インスブルックから南にあるブレンナー峠ボルツァーノヴェネツィアミラノなどイタリア方面へは、ブレンナー高速道路(高速道路A13)を利用してアクセス可能であり、イタリアとの国境には約30分で到達する。

北方へ向かう高速道路はノルトケッテ連峰があるために存在せず、国道を通ってゼーフェルトミッテンヴァルトガルミッシュ=パルテンキルヒェンへアクセスできる。

鉄道

インスブルック中央駅はICE (国内都市間特急)、EC(ヨーロッパ国際特急)やIC(国内都市間急行)を含むドイツ、イタリア、スイスへ向かう全ての国際列車が停車する西オーストリア最大級の駅である。オーストリア国内路線ではザルツブルク、ウィーン、グラーツ、ブレゲンツ行きの直通列車があり、国際路線ではヴェローナ、ヴェネツィア、ミラノ、ミュンヘン、ハンブルクベルリン、チューリッヒ、バーゼル、コペンハーゲンへの直通列車が運行されている。また、ヨーロッパの高級長距離列車オリエント急行もインスブルックに停車する。

ケーブルカー

1906年より、市街部とイン川対岸にあるフンガーブルク町を結ぶフンガーブルクバーンが運行されており、2007年には新しいケーブルカーに置き換えられている。

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出身&ゆかりの人物

歴史

政治・産業・経済

文化人

スポーツ

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その他

参照

風景

脚注

外部リンク

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