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ウィリアム・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク (第4代ポートランド公爵)
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第4代ポートランド公爵ウィリアム・ヘンリー・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク(英: William Henry Cavendish-Scott-Bentinck, 4th Duke of Portland PC FRS FSA、1768年6月24日 - 1854年3月27日)は、イギリスの貴族、政治家。枢密顧問官、王立協会フェロー、ロンドン考古協会フェロー。
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経歴
1768年6月24日、後にイギリスの首相となる政治家の第3代ポートランド公爵ウィリアム・ベンティンク[註 1]と、妻のドロシー・キャヴェンディッシュの間に生まれる[1]。母ドロシーの父である第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュも1756年から1757年にかけて首相を務めた。弟にインドの総督となったウィリアム・ベンティンク卿がいる。
ウェストミンスター・スクールを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチで学び[2]、1793年に民法学博士号(D.C.L.)を取得[1]。
1790年から1791年までハンプシャー州ピータースフィールド選挙区[1][2]から、1791年から1809年までバッキンガムシャー州選挙区[1][2]から庶民院議員に選出される。また1807年3月から9月まで父の下で大蔵卿委員(Lord of the Treasury)[3]を務めた。1809年に父の死によりポートランド公爵を相続し、貴族院へ移る。
1827年4月に相婿のジョージ・カニングが組織した内閣において王璽尚書[4]として入閣。このとき同時に枢密顧問官に列せられた[4]。続いて同年8月に首相となった初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソンの下では枢密院議長(Lord President of the Council)[5]として入閣し、ゴドリッチ内閣が総辞職する翌1828年1月まで務めた。
またポートランドは1794年から1841年まで名誉職であるミドルセックス州の州知事(地方長官; Lord Lieutenant of Middlesex)[6]に任じられていた。
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家族
彼は1795年8月4日にジョン・スコットの娘ヘンリエッタ(1844年没)とロンドンで結婚し[1]、同年9月19日に姓へ「スコット」を加えた[7]。夫妻は四男五女をもうけた。
- ティッチフィールド侯爵ウィリアム・ヘンリー (1796年 - 1824年)
- レディ・マーガレット・ハリエット (1798年 - 1882年)
- レディ・キャロライン (1799年 - 1828年)
- ウィリアム・ジョン卿(1824年よりティッチフィールド侯爵) (1800年 - 1879年) - 第5代ポートランド公爵
- ウィリアム・ジョージ・フレデリック卿 (1802年 - 1848年)
- ヘンリー・ウィリアム卿 (1804年 - 1870年)
- レディ・シャーロット (1805年 - 1889年) - 初代オッシントン子爵イヴリン・デニソン夫人
- レディ・ルーシー・ジョーン (1807年 - 1899年) - 第6代ハワード・ドゥ・ウォールデン男爵チャールズ・エリス夫人
- レディ・メアリ (1809年 - 1874年) - サー・ウィリアム・トップハム夫人
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註釈
- 1801年にキャヴェンディッシュ=ベンティンクへ改姓した。
出典
外部リンク
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