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エグバル・ハミディ

イラン人のレーシングカーデザイナー ウィキペディアから

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エグバル・ハミディ(Eghbal Hamidy, 1960年8月1日 - )[1]は、イラン空力エンジニア。

概要 エグバル・ハミディ Eghbal Hamidy, 生誕 ...

1989年から2002年の初頭にかけて、4つのF1チームでチーフ・エアロダイナミシストを務めた。

キャリア

ハミディはF1で働く数少ないイラン人のエンジニアのうちのひとり。

イランのシーラーズで生まれ、英国で育ったハミディは、アメリカ航空宇宙局(NASA)のアポロ計画に憧れ、エンジニアリングへの関心を高め、航空エンジニアになることを志し、インペリアル・カレッジ・ロンドンで航空工学の理学士号と修士号を取得し、航空業界での就職を探るも叶わず、さらに、車両動力学を専攻し、1988年に博士課程を修了し博士[2]

在学中の1980年代後半にハミディは、1980年代初頭にウィリアムズロータスによって使用されていた、ホンダが後援するインペリアルの40%ローリングロードウィンドトンネルで働いていた。

ウィリアムズ

フランク・ダーニーウィリアムズを去り、風洞経験を持つエンジニアの公募がなされた1989年、エアロダイナミシストとしてウィリアムズチームでキャリアをスタートさせ、1995年の終わりまでチームにとどまる。

パトリック・ヘッドエンリケ・スカラブローニとともに働くが、1990年夏にレイトンハウスマーチ)を解雇されたエイドリアン・ニューウェイが合流し、チーフ・デザイナーの席に就く。

以降5年半、2人は行動を共にし多くのチャンピオンカーを送り出すことになる。

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スチュワート

1996年からに1998年にかけて、スチュワート・グランプリの設計チームに加わり、3シーズン分の車両設計で、チーフエアロダイナミシストを務める。

初年度のSF-1は、ルーベンス・バリチェロがモナコで2位となった。

最終年のSF-3は、新設計のフォード・コスワース CR-1との相性が良く、テクニカルディレクターのゲイリー・アンダーソンとのR&Dで好成績を残した。

ジョニー・ハーバート1999年ヨーロッパグランプリニュルブルクリンク)での優勝を含め4つの表彰台を手にし、ルーベンス・バリチェロは1999年フランスグランプリポールポジションを記録した。

TWRアロウズ

1998年からに1999年にかけて、トム・ウォーキンショーが率いるTWRアロウズの設計チームに加わり、2シーズン分の車両設計で、チーフデザイナーを務めた。

さらに見る 投入, 設計 ...

これは1998年に納車された、ジョン・バーナードの手によるA19のR&Dで、ハミディはVキールソリューションカーの理解と熟成を担当した。

この、ノーズ下方域のフロー処理に関わる課題は、サスペンション設計との関連から、モノコックの下側に遥かに外れた位置におけるロアアーム支持ポイントを必要とするものであったが、TWRアロウズ内部でR&Dされた上で、セルジオ・リンランドが雇用され、2002年車のA23のツインキール設計として結実する。

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アロウズ・A21(2000年)
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アロウズ・A22(2001年)
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A23 (ツインキール)
スーパーアグリ・SA05
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ジョーダン

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ジョーダン・EJ11(2001年)

2000年からジョーダンで2期、テクニカルディレクターを務めた。

2000年はマイク・ガスコインと、2人テクニカルディレクター体制で、空力ヘッドのジョン・アイリーで、2001年車のジョーダン・EJ11の設計が行われた。

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ジョーダン・EJ12のツインキール

2001年は、ハミディの最後の年となる。スポーティングディレクターのゲイリー・アンダーソン、チーフデサイナーのジョン・マクキリアムとの組み合わせで2002年車のジョーダン・EJ12の設計を終え、2002年の初めに業界からその姿を消したという[3] [4]

ジョーダン離脱後の2004年11月、個人オフィスとして「EHE Ltd.」を設立しているが[5]、以後の目立った活動はない。

参考文献

外部リンク

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