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キキ・ヴァンダウェイ
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アーネスト・モーリス・"キキ"・ヴァンダウェイ3世 (Ernest Maurice "Kiki" VanDeWeghe III, 1958年8月1日 - ) は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手、指導者。身長203cm、体重100kg。ポジションはスモールフォワード及びパワーフォワード。
2013年に姓の綴りを"Vandeweghe"から"VanDeWeghe"に変更した。
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経歴
要約
視点
選手時代
ヴァンダウェイは1958年に西ドイツのヘッセン州ヴィースバーデンで生れ、ロサンゼルスで育った。父のアーニー・ヴァンダウェイは1950年代にニューヨーク・ニックスで活躍した元NBA選手だった。また、母方の伯父はNBAでリバウンド王を獲得したメル・ハッチンス、姪はプロテニス選手のココ・バンダウェイである。進学したUCLAでは、4年次に平均19.5得点を記録してチームをNCAAトーナメント決勝に導いたがルイビル大学に敗れた。
1980年、ヴァンダウェイはNBAドラフト全体11位でダラス・マーベリックスに指名されたが入団を拒否し、同年12月にトレードでデンバー・ナゲッツに入団した。2年目の1981-82シーズンに平均21.5得点を記録し、アレックス・イングリッシュとともにチームの主力となった。この年から7年連続で平均20得点をマークした。
1982-83シーズン、ヴァンダウェイはリーグ2位の平均26.7得点で自身初のオールスター出場を果たした。この年の得点王はチームメイトのイングリッシュであり、同一チームの選手が平均得点のトップ2を独占するのは史上唯一の事例となった。翌1983-84シーズンはリーグ3位かつキャリアハイとなる平均29.4得点を叩き出し、2年連続でオールスターに選ばれた。このシーズンには2度の1試合50得点以上を記録したが、このうち自己最高の51得点をあげた1983年12月3日のデトロイト・ピストンズ戦では、トリプルオーバータイムの末184-186で敗れ、両チーム合計370得点のNBA記録を樹立した。
1984年、ヴァンダウェイはラファイエット・リーバーら3選手及びドラフト指名権2つと交換でポートランド・トレイルブレイザーズにトレードされた。ブレイザーズでは移籍後3年連続でチーム得点王となった。1986-87シーズンには平均26.9得点をあげ、リーグ1位のスリーポイント成功率.481を記録した。しかし翌シーズン途中に背中を負傷して45試合を欠場し、主力の座をクライド・ドレクスラーやジェローム・カーシーに譲るようになった。そして1988-89シーズン途中、ヴァンダウェイは父がかつてプレーしたニューヨーク・ニックスにトレードされた。
ニックスでは1990-91シーズンにチーム2位の平均16.3得点をあげるなど復活の兆しを見せたが、翌シーズンは出場時間が平均15分を割るようになり、1992年にロサンゼルス・クリッパーズにトレードされた。クリッパーズで1シーズンプレーした後現役を引退した。
NBAでの成績は、810試合の出場で通算15,980得点(平均19.7得点)であった。
指導者時代
引退後、ヴァンダウェイはダラス・マーベリックスのフロントに入り、1998年のドラフトでダーク・ノヴィツキーの獲得に大きく貢献した他、チームのアシスタントコーチも務めた。2001年に古巣デンバー・ナゲッツのゼネラルマネージャーに就任し、2003-04シーズンにはドラフトでカーメロ・アンソニーを指名して9年ぶりのプレーオフ進出に大きく貢献した。しかしナゲッツはなかなかプレーオフ1回戦の壁を突破することが出来ず、2006年に解任された。
その後、ヴァンダウェイは2007年にニュージャージー・ネッツのフロントに加わり、翌年ゼネラルマネージャーに就任した。2009-10シーズン途中、チームが開幕から16連敗したことを受けて暫定でヘッドコーチを兼任した。最終的にネッツは球団史上ワーストとなる12勝70敗に終り、ヴァンダウェイはシーズン終了後にヘッドコーチとゼネラルマネージャーを辞任した。ヘッドコーチとしての戦績は12勝52敗、勝率.188であった。
ヴァンダウェイは2013年にNBAの指導部に加わり、バスケットボール運営部門の副部長を2021年まで務めた。
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個人成績
* | リーグ1位 |
太字 | キャリアハイ |
レギュラーシーズン
プレーオフ
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関連項目
外部リンク
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