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キャサリン・ヘプバーン

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キャサリン・ヘプバーン
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キャサリン・ホートン・ヘプバーン(Katharine Houghton Hepburn, 1907年5月12日 - 2003年6月29日)は、アメリカ合衆国女優

概要 キャサリン・ヘプバーン Katharine Hepburn, 本名 ...

2020年時点で演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優[1]。ノミネート数も、俳優としてはオスカー史上第2位の12回に上る(最多ノミネート記録はメリル・ストリープの21回/2020年時点)。1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」で女優部門の1位に選ばれている。

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生涯

要約
視点

コネチカット州ハートフォードにて生まれる。祖父は牧師で、父親のトーマス・ノーヴァル・ヘプバーンはバージニア州出身の医師[2]だが、母親のキャサリン・マーサ・ホートン英語版婦人参政権論者でマーガレット・サンガーと共に産児制限運動に携わった[3]という、自由主義的な環境で育った。

キャサリンは活発な少女で、髪の毛を短く切って自身の名前をジミーと称していた[4]。また、2歳年上の兄トムと仲が良かったという。他にも4歳年下のディック(劇作家)、6歳年下のボブ(医師)、11歳年下のマリオン、13歳年下のペグという6人兄妹の長女であり、幼い頃から演じることに熱中していた[5]。14歳の頃、兄のトムが他界。報道では自殺[6]、あるいは首吊りの真似事をしていた際に起こった事故[7]であるとされているが、真相はいまだに謎のままである。

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1928年のブリンマー大学イヤーブックに掲載されたヘプバーンの卒業写真

ブリンマー大学では心理学を学んでいたが、21歳の時にサマーストック『The Czarina』『ゆりかご泥棒』で初舞台を経験し、その後も演劇を続け、卒業後にニューヨークに移ると、発声に問題があったため[8]、フランシス・ロビンソン=ダフについて、ひたすら発声練習に励み、劇団に積極的に参加。10本以上の舞台を経て、1932年にRKOの『愛の嗚咽』で映画デビューした。当初、彼女はハリウッドに興味がなく、舞台女優としてのキャリアを確実に踏んでおり、舞台のギャランティは週給100ドルであった。映画に出演するつもりもないので、相手を驚かせるため冗談半分でRKOに週給1500ドルを要求したところ[9]、会社側がこの条件を呑んだため、言い出した以上出演を承諾せざるを得なくなった、というのがデビューの逸話である。

女優としてスクリーンで早くに頭角を現し、オスカー女優となった彼女ではあるが、1930年代中期より『フィラデルフィア物語』(1940年)が大ヒットする頃までは、ハリウッドの「ボックス・オフィス・ポイズン」(金にならないスター)[10]として興行主からは特に嫌われていた。しかし当時、ヒットしなかったスクリューボール・コメディ、例えばケーリー・グラントと共演している2作『赤ちゃん教育』『素晴らしき休日』などは、非常にアクロバティックで、台詞も膨大なマシンガン・トークを駆使し、さらにはアドリブも満載で、名シーンも数多い。これらは後年になり、非常に高い再評価を受けるに至っている。またこれらの名シーンは後年、多くのコメディやラヴ・ストーリーで多用されている。『フィラデルフィア物語』などのジョージ・キューカーと組んだ作品は特に有名であり、キューカーとは彼が他界するまで、生涯の親友であった。

身長が170cm以上あり、細く長い肢体も特徴の一つであり、当時としては大柄な女優で、小柄な男優が相手役を尻込みしたとも言われる。

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ヘプバーンは個性的で知的、自立する20世紀のアメリカの女性の象徴として、多くの尊敬を集めていた。『女性No.1』(1942年)より

ヘプバーンは、当時としては珍しいパンツ・スタイルを好んだ。黄金時代の映画スターであるにもかかわらず、着飾ることをせず、実用性のあるパンツ・スタイルで常に過ごしていたため、それがやがてトレンドとなった。また己のプライヴァシーを重視し、独自のライフ・スタイルを貫き、現代女性のライフ・スタイルのベースともなったとも評される。

ジェームズ・ディーンなどの登場には違和感を抱いた」と言うように、「男性が男らしくあることを求める」性差別主義的な側面もある。また、そりの合わなかったジョゼフ・L・マンキウィッツ監督に、『去年の夏 突然に』の映画撮影終了後につばを吐きかけたという逸話がある。晩年、全米で最も有名なテレビ司会者のひとりであるバーバラ・ウォルターズのテレビ番組のインタヴューで「ねぇ、ケイト。どうして、スカートを履かないの?」と問われ「あなたのお葬式用にとってあるのよ」と切り返したことも知られる。

公の場を嫌い、自身がノミネートされた年度の授賞式に出席することも無かった。彼女が唯一出席したのは1973年度、第46回アカデミー賞授賞式のみであり、友人のローレンス・ウェインガーテンアービング・G・タルバーグ賞を贈呈するためだった。黒のシンプルなパンツスーツという、ヘプバーンらしい姿と茶目っ気あるコメントで笑いを誘い、朗々たるスピーチで拍手喝采を浴びた。

結婚は一度きりで、カレッジ時代に出会ったラドロウ・オーデン・スミスと1928年に結婚した[11]。2人は1934年に離婚するが、元夫のスミスとは、彼が癌で他界するまで、良き友人として交流があった[12]。また、大富豪ハワード・ヒューズとのロマンスも囁かれたが、1991年に発表した自伝『Me-キャサリン・ヘプバーン自伝』には、ヒューズとの関係も包み隠さず語られている。この自伝自体が画期的であり、ヘプバーンと言えば私生活を語らないスターの代表であったため、全米で数百万部を売り上げる大ベストセラーになった。

9作品で共演したスペンサー・トレイシーとは名コンビだった。スペンサーは敬虔なカトリックではなかったが、宗教上離婚が出来なかったため[13]、2人は結婚をせず、20年以上を共に過ごすこととなる。事実上のパートナーであり、彼女は自宅をニューヨークに持っていたが、2人の生活はロサンゼルスが中心であった。1960年代にスペンサーの健康状態が悪化すると、彼女は5年間の休養を取り、看病した[14]1968年のスペンサーの死を看取ったのはキャサリンである。しかし、スペンサーの家族に配慮し、葬儀には出席しなかった。2人が共演した最後の作品『招かれざる客』で、ヘプバーンの姪のキャサリン・ホートンが、彼女の娘役で女優としてデビューを飾っている。

1930年代からの活躍の時期が重なる俳優ヘンリー・フォンダとは共演したことがなかったが、フォンダの長女で映画『黄昏』のプロデューサーでもあったジェーン・フォンダは、父の相手役にと直接キャサリンに出演交渉した。『黄昏』の内容が良かったこと、父に現役の俳優として最高の栄誉であるアカデミー主演男優賞を取らせてやりたいと願うジェーンの熱意にほだされ、出演を承諾したという(そしてヘンリーは実際に主演男優賞を獲得した)。ジェーンも自伝でこのいきさつを詳しく述べているが、彼女の個性のきつさもあって、当初はヘプバーン自ら、名女優ジェラルディン・ペイジをフォンダの相手役に推薦したようである。

ライフ』誌が1968年、『冬のライオン』でエレノア王妃を演じるにあたってヘプバーンを取材した際に「演技の女王(クイーン)が実在のクイーンを演じたら誰も彼女にはかなわない」と言わしめた存在であり、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が1999年6月に選出した「アメリカで最も偉大なる女優50名」では第1位となった。

旅情』(1955年)の撮影中、目が細菌に感染し、失明寸前にまで陥った。感染症は死去するまで完治することはなかった。

2003年6月29日、コネティカット州オールドセイブルックにて、老衰のため96年の生涯を終えた。

現在、オールドセイブルックの観光名所のうち一番人気を誇る場所が「The Katharine Hepburn Cultural Arts Center(キャサリン・ヘプバーン文化芸術センター)」である。

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出演作品

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受賞・候補歴

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著書

  • The Making of the African Queen: Or How I Went to Africa With Bogart, Bacall and Huston and Almost Lost My Mind (1987)
  • Me: Stories of My Life (1991)
    • Me: キャサリン・ヘプバーン自伝(芝山幹郎訳、文藝春秋、1993年/文春文庫、1998年)

評伝

  • Edwards, Anne (1985). A Remarkable Woman: A Biography of Katharine Hepburn.
    • アン・エドワーズ『キャサリン・ヘプバーン』(小田島雄志訳、文藝春秋、1990年)

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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