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クラウス・キンスキー

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クラウス・キンスキー
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クラウス・キンスキーKlaus Kinski, 本名:Nikolaus Karl Günther Nakszynski, 1926年10月18日 - 1991年11月23日)は、ドイツ人俳優。長女のポーラ・キンスキー英語版、次女のナスターシャ・キンスキー、長男のニコライ・キンスキー英語版はともに俳優となった。

概要 クラウス・キンスキー Klaus Kinski, 本名 ...
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来歴・人物

自由都市ダンツィヒツォポット(現ポーランド)で、薬剤師の子として生まれた。父親はポーランド系の血を引くドイツ人[2]。4歳の時、一家でドイツ本国ベルリンに移住。第二次世界大戦ドイツ兵として従軍した後に演技の道に進み、舞台でシェイクスピアフランソワ・ヴィヨンを朗読するなどしていた。

なかでも公演の際は、ステージ上で政治的発言や、観客に対しての過激な言動をするなど、その特異な個性は映画界進出後も変らなかったという。映画デビューは1948年。1950年代から1960年代は主に戦争映画マカロニ・ウェスタンエドガー・ウォーレス原作映画などに出演。

1955年、ルートヴィヒ2世を描いた本国版の旧西ドイツ映画『ルートヴィヒ2世 - ある王の栄光と没落[3]カラー作品)でルートヴィヒ2世の弟であるオットー1世を演じた。撮影は前年の1954年8月3日にクランクインし、約3ヶ月後の11月11日にクランクアップした。

その後ヨーロッパで活躍するが、特にヴェルナー・ヘルツォーク監督の5本の作品が有名である。ニュージャーマンシネマ(ドイツにおけるニューシネマ)の旗手として注目され始めていたヘルツォークの出世作とも言える1972年の『アギーレ/神の怒り』における狂信的な英雄像をキンスキーは体現。これにより以前までのキャラクターとは全く異なる変貌を遂げる。この後は社会的問題作を量産し、一筋縄ではいかない性格俳優として君臨してゆく。

だが撮影現場では常にスタッフ、監督はじめ撮影地での現地住民たちとも衝突。数多くの争いの火種を生み、痛烈な批判を浴びた事でも知られる。そんな環境下にありながらも、対立、確執を繰り返しながらおびただしい数の作品に主演。ヘルツォークとは『フィツカラルド』(1982年)、『コブラ・ヴェルデ』(1987年)といった芸術的傑作を晩年まで作りつづけた。

こうした厳格かつ熱狂的な個性を逆手に取り、オカルトサイコスリラーをテーマとした作品においての強烈な犯罪者や悪役にもしばしば登場した。『上海異人娼館 チャイナ・ドール』(1982年)では大野美雪本番行為を演じ話題となった。1989年の『パガニーニ』では監督も務めている。

1972年以降の代表作に『ノスフェラトゥ』、『バンパイア・イン・ベニス』(ともに吸血鬼役)、『アンドロイド』、『スター・ナイト』、『クリーチャー』、『クロール・スペース』などが日本でも知られる。

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娘に対する性的虐待と小児性愛告白

長女のポーラ・キンスキーを、5歳の頃から14年間に渡って繰り返しレイプしていたと、死後に発行された長女の自伝で指摘されている[4]

次女のナスターシャ・キンスキーも、4~5歳のときに体を必要以上に触られたり、強く抱き締められたりした。ナスターシャは、「愛情に満ちた父親の抱擁ではなく、それ以上のものだと直感した」と発言している[5]。ナスターシャは、父が今も生きていれば「彼を監獄に送り込むために何でもする」と語っている[6]

ドイツのビルト紙によると、クラウス本人も、1975年に出版した自叙伝の中で、自身の小児性愛を告白し、長女のポーラが3歳くらいのときに売春宿に連れて行ったこと、17歳の少女の前で、未成年のその妹と性的関係を持ったことを記述し(のちに本書から削除された)、1985年のテレビ番組内では、「少女と性的関係を持てばここでは有罪だが、結婚が認められる国もある」などと発言した[7]

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主な出演作品

要約
視点
さらに見る 公開年, 邦題 原題 ...

なお2004年公開の映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』においてクラウス(テロップでは変な顔の男)という彼をモデルにしたキャラクターが登場する。

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脚注

外部リンク

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