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コーカサス

黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる地域 ウィキペディアから

コーカサスmap
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コーカサス英語: Caucasus)、またはカフカースカフカスロシア語: Кавказ ラテン文字転写例: Kavkaz、グルジア語: კავკასიაアルメニア語: Կովկասアゼルバイジャン語: Qafqaz)は、黒海カスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索[1][2]

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コーカサス山脈

英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも古代ギリシア語: Καύκασος (Kaukasos; カウカーソス)に由来する[注 1]。「カウカーソス」自体は、プリニウス博物誌』によるとスキタイ語クロウカシス(白い雪)に由来するとされる[3]

コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサス南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれる。北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるが、ヨーロッパに区分されることもある。

全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語文化宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であるとされる。

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コーカサスの国々

要約
視点
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コーカサスの境界図
北コーカサス
南コーカサス

厳密には、ロシア連邦クラスノダール地方のソチ周辺はコーカサス山脈の南、アゼルバイジャンのダヴァヒ県英語版クバ県クサル県英語版シアザン県英語版ハヒマズ県ヒジ県英語版はコーカサス山脈の北に位置する。

アゼルバイジャンは飛地(画像ではアゼルバイジャン領とあるが飛地である)にナヒチェヴァン自治共和国をもつが、本土西部のナゴルノ・カラバフとその周辺地域は1992年から2023年まで「アルツァフ共和国」として、アルメニア系住民の支配下に置かれる形の独立状態になっていた。

ジョージアは南西部アジャリア、北西部アブハジアの2自治共和国と北東部の南オセチアを含むが、アブハジアと南オセチアはジョージア政府の統制がまったく及ばず、独立状態となっている。

独立国

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事実上独立した地域

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非独立地域

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民族

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民族言語学的グループの一覧

母語とする言語によってコーカサスの主要な民族を分類すると以下のようになる[注 2]。大まかにはロシア人が北コーカサス、それ以外の諸民族が南コーカサスおよび北コーカサスの最南部に住む。

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宗教

南コーカサスナゴルノ・カラバフ共和国を除くアゼルバイジャンイスラム教シーア派が大半を占める他はキリスト教が主流となっているが、ジョージアアジャリア自治共和国はキリスト教徒が主流であるもののスンニ派イスラム教徒が比較的多くなっている。

一方、北コーカサスはイスラム教スンニ派が主流をなしているが、唯一北オセチア共和国ではキリスト教が主流となっている。また、北コーカサスにはロシア人などのスラブ系民族も多いため、キリスト東方正教も広く信仰されている他、無宗教も多い。チェチェン共和国ダゲスタン共和国イングーシ共和国ではイスラム教が広く信仰されている。

歴史

要約
視点

この地域には人類が古くから住みついていたことが分かる証拠として、紀元前9500年ごろの金属器が発見されている。また、紀元前4000年ごろからのマイコープ文化クラ・アラクセス文化英語版(紀元前3500-2200年)の遺跡が発見され、大変多くの金属器が出土し、銅石器や青銅器文化であったことが分かった[4][5]

古代には南コーカサスにアルメニア人、グルジア人のキリスト教文化が栄え、北コーカサスではアゾフ海東岸・カスピ海西岸の草原地帯で興亡したキンメリアスキタイフンアヴァールハザールなどイラン系テュルク遊牧民の国家の支配下にあった[要出典]。山岳地帯では先住のコーカサス諸語の話し手たちが居住しており、イラン系やテュルク系の人々と交じり合って文化的・人種的影響を受けつつ独自で多様な言語と文化を保った。

13世紀モンゴル帝国軍が到来してジョチ・ウルスイル・ハン国に分割され、14世紀以降はイスラム化が進んだ中央アジアのテュルク系遊牧民に代わるマムルークの供給源としてイスラム勢力との絶え間ない接触を続けた。

16世紀以降、南コーカサスはサファヴィー朝などのイラン勢力とオスマン帝国の争奪の場となり、1578年オスマン・サファヴィー戦争英語版のひとつララ・ムスタファ・パシャのコーカサス戦争英語版が起こった。北コーカサスでは15世紀にジョチ・ウルスの勢力を継承したクリミア・ハン国やオスマン帝国が進出して支配を広げたが、17世紀以降、大コーカサス山脈北麓のステップ地帯からコサックを尖兵とするロシア帝国の影響力が浸透し始めた。

19世紀に入ると北コーカサスの併合を完了したロシアは大コーカサス山脈の南にまで勢力を伸ばし、南コーカサスを支配するカージャール朝イランとオスマン帝国からこの地方を奪った。同じ時期、北コーカサス東部の山岳地帯では、ミュリディズム運動と呼ばれるイスラム神秘主義のひとつナクシュバンディー教団の指導者たちを中心とする反乱が起こり、ロシア支配に激しく抵抗した(コーカサス戦争)。

ロシア革命が起こると、南コーカサスではアルメニア、グルジア(ジョージア)、アゼルバイジャンが1918年に独立を宣言するが、相互に対立を続けるうちに1921年に赤軍の侵攻を受け、1922年ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を結成してソビエト連邦に合流した。北コーカサスでもチェチェンやダゲスタンで独立運動が起こるが赤軍によって赤化が進められ、ロシアに編入された。

1991年のソ連解体は、形式上連邦からの分離独立権を認めたソ連憲法に基づき南コーカサスの3共和国に独立を果たさせたが、北コーカサスの諸民族自治共和国はロシア連邦からの分離権を憲法によっても認められず、独立運動をロシア当局に押さえ込まれた。中でもチェチェン共和国1991年に就任したジョハル・ドゥダエフ大統領のもとでソ連およびロシア連邦からの分離独立を宣言し、強硬姿勢を貫いたため、1994年よりロシア連邦軍の攻撃を受け、第一次チェチェン紛争が勃発した。以来、チェチェンを中心に戦乱、テロが続発し、北コーカサスはロシアの中でも特に不安定な地域になっている。一方、独立を果たした南コーカサス3国も、アゼルバイジャンとアルメニアのナゴルノ・カラバフ戦争などを原因として民主化の阻害と経済発展の停滞が著しく、問題が山積している。

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ギャラリー

脚注

関連項目

外部リンク

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