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ジャネット・ベイカー

イギリスの声楽家 (1933-) ウィキペディアから

ジャネット・ベイカー
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デイム・ジャネット・アボット・ベイカー, CH DBE FRSA(英語:Dame Janet Abbott Baker, CH DBE FRSA、1933年8月21日 - )は、英国イングランド)の声楽家メゾソプラノ)。オペラ、コンサート、歌曲の歌手として英国では最もよく知られている[1]

概要 生誕, 職業 ...

彼女は特にバロックや初期イタリアのオペラ、ベンジャミン・ブリテンの作品との関わりが深かった。 1950年代から1980年代にかけて、彼女は傑出した歌う女優とみなされ、その劇的な力強さで広く賞賛された。おそらくベルリオーズの大作『トロイアの人々の悲劇的なヒロインであるディードーの有名な演技が最も代表的である[2]。コンサートや歌曲においても、グスタフ・マーラーエドワード・エルガーの演奏者として特筆された。デビッド・ガットマンは、グラモフォン誌において、彼女のマーラー『亡き子をしのぶ歌』の演奏を「親密で、ほとんど自己対話のようだ」と評した[3]

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経歴

要約
視点

若年期

ジャネット・アボット・ベイカーは、ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャーのハットフィールドで生まれた。彼女の父親は、エンジニアであり、聖歌隊員でもあった[4][5]。彼女の家族は、ドンカスターベントレーの整備工場で働いていた[6]。彼女はヨーク・カレッジ・フォー・ガールズ(en:York College for Girls)に通学し、次にグリムスビーのウィントリンハム・ガールズ・グラマー・スクール(en:Wintringham Girls' Grammar School)に通学した[7]。彼女が10歳のとき、兄のピーターが心臓病で亡くなったことが、残りの人生に責任を負うようになったきっかけだった、と2011年9月のBBCラジオ3レブレヒトインタビューで明かしている[8]

まず彼女は銀行で働いた。その後1953年にロンドンに移り、そこでマリエル・セント・クレア、ヘレン・イセップ、ロッテ・レーマン[9]に師事した。ヘレンの息子マーティン・イセップは後に彼女の常連の伴奏者になっている[10][11]。 1956年にバスに轢かれ、脳震盪と、持続的に痛む背中の怪我を負った[10]。その同じ年、彼女はウィグモア・ホールでのキャスリーン・フェリア・メモリアル・コンペティションで2位になり、全英中の注目を集めた[10]

デビュー

1956年、彼女はオックスフォード大学のオペラクラブで、スメタナ秘密のミス・ロザとして舞台デビューした。同じ年、彼女はグラインドボーン音楽祭にもデビューした。 1959年、彼女はヘンデルオペラ協会の『ロデリンダ』でエドゥイジェを歌った。他には、後にレイモンド・レッパードと傑出した録音を行った『アリオダンテ』(1964)、『オルランド』(1966)などのヘンデル作品の役を務めている。

オペラ

オールドバラ音楽祭のイングリッシュオペラグループで、彼女は1962年にパーセルディドとエネアス』のディド、ベンジャミン・ブリテン編曲版『ベガーズ・オペラ』のポリー、ブリテン『ルクレティアの陵辱(英語版)』のルクレティアを歌った。グラインドボーンでは、彼女は再びディド(1966)として、フランチェスコ・カヴァッリ『カリスト(英語版)』ではダイアナ/ジュピターとして、モンテヴェルディ『ウリッセの帰還(英語版)』ではペネロペとして登場した。スコティッシュ・オペラ英語版)では、モーツァルトコジ・ファン・トゥッテ』でドラベッラ、ベルリオーズトロイアの人々」でディードー、パーセル『ディドとエネアス』でディド[12]リヒャルト・シュトラウスばらの騎士』でオクタヴィアン、同『ナクソス島のアリアドネ』で作曲家、グルックオルフェオとエウリディーチェ』ではオルフェオを歌った。オルフェオは彼女の代表的な役とみなされ、彼女は多くのプロダクションでそれを歌い、その演技はグラインドボーンで収録されビデオで観ることができる(以下を参照)。

1966年、彼女はコヴェント・ガーデンロイヤル・オペラ・ハウスにブリテン『夏の夜の夢』のハーミアとしてデビューし、その後、ベルリオーズのディードー、ブリテン『オーウェン・ウィングレイヴ(英語版)』のケイト、モーツァルト『皇帝ティートの慈悲』のヴィッテリアと『イドメネオ』のイダマンテ、ウィリアム・ウォルトン『トロイラスとクレシダ(英語版)』のクレシダ、グルック『アルチェステ』のタイトルロール(1981)を歌った。イングリッシュ・ナショナル・オペラでは、モンテヴェルディ『ポッペーアの戴冠』(1971)[13]マスネウェルテル』のシャルロット、ドニゼッティ『マリア・ストゥアルダ(英語版)』とヘンデル『ジューリオ・チェーザレ』のタイトルロールを歌った。

オラトリオと歌曲

同じ時期に、彼女はオラトリオ役とソロリサイタルの両方で、コンサートホールの聴衆と等しく強い衝撃を与えた。彼女の最も注目すべき業績の中には、1964年12月にジョン・バルビローリと、20年以上後にサイモン・ラトルと共演したエルガーゲロンティアスの夢の天使の録音がある。彼女の1965年のエルガー『海の絵マーラーリュッケルト歌曲集もバルビローリと録音された。また、1965年から、デイビッド・ウィルコックス(英語版)の下で、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズのクリスマスオラトリオ『ホーディー(英語版)の最初の商業録音を行なった。 1963年、彼女はBBCプロムスのデビュー出演となったレオポルド・ストコフスキーの指揮の下、プロムスでは初となるマーラー交響曲第2番『復活』のコントラルトパートを歌った。また、彼女は1971年にボストンで開催されたピーボディ・メイソン・コンサート(英語版)シリーズに出演した[14]

1976年には、ブリテンが彼女のために書いた独唱カンタータ『フェードラ(英語版)』を初演した。ドミニク・アルジェント(英語版)ピューリッツァー賞を受賞した連作歌曲『バージニア・ウールフの日記から(英語版)』も彼女の声を念頭に置いて書かれており、彼女が初演している。また、ブラームスアルト・ラプソディ』、ワーグナーヴェーゼンドンク歌曲集』、フランスドイツ、英国のレパートリーの独唱曲など、洞察力に富んだ演奏で高く評価されている。

引退

彼女の最後のオペラ出演は、1982年7月17日にグラインドボーンで開催されたグルック『オルフェオとエウリデーチェ』のオルフェオであった[15]。1988年5月、彼女はニューヨークのオラトリオ協会のコンサートでその役を繰り返し演奏した(これが米国との予告なしの別れとなった)。その後も歌曲のリサイタルを続けていたが、1989年に引退した(ただし、1990年1月に少数の録音を行っている)。彼女は1982年に回想録『Full Circle』を出版した。1991年、彼女はヨーク大学学長に選出され[6]、2004年にグレッグ・ダイク(英語版)に引き継ぐまでその地位にあった。リーズ国際ピアノコンクールの熱狂的な後援者でもあり、2009年の閉会式で挨拶を行なった[16]

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栄誉と受賞

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私生活

彼女は1957年にハロー(英語版)でジェームズ・キース・シェリーと結婚した。彼は彼女のマネージャーになり、演奏活動に同行した。二人は彼女のキャリアのために子供を持たないことに決めた[27]

歌手を引退した後、彼女はいくつかの朗読の役を演じ、録音した。たとえば、ブリテンの付随音楽『ペネロペの救助』のナレーター役などである。後年、2009年のリーズでのイベントのように時折公の場に出ることを除いては、彼女は「親しい友人以外とは何もしない」と言った[15]。これらの友人とは、歌手のフェリシティ・ロット、ピアニストのイモージェン・クーパー指揮者ジェーン・グラヴァー、女優のパトリシア・ラウトリッジ(英語版)などであり、全て2019年に上映されたBBCのドキュメンタリー番組「Janet Baker in her own words」に出演している[28]。夫が脳卒中を起こした後、彼女は家で夫の世話をした[29]

録音

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DVD

  • グラインドボーン音楽祭オペラ:ガライブニング(1992)、Arthaus Musik DVD、100-432、2004

参考文献

外部リンク

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