トップQs
タイムライン
チャット
視点

ニコラエ・ディカ

ルーマニアのサッカー選手 ウィキペディアから

ニコラエ・ディカ
Remove ads

ニコラエ・マリウス・ディカNicolae Marius Dică, 1980年5月9日 - )は、ルーマニアピテシュティ出身の元サッカー選手、元ルーマニア代表である。現サッカー指導者。現役時代のポジションは攻撃的ミッドフィルダーセカンドトップ。ニコラエ・ディチャニコライ・ディツァとも表記される。2006年にルーマニア年間最優秀選手賞英語版を受賞するなど、ルーマニアを代表する選手の1人だった。

概要 ニコラエ・ディカ, 名前 ...
Remove ads

経歴

要約
視点

クラブ

ルーマニアでの初期

ダチア・ピテシュティ

生まれ故郷ピテシュティを拠点とするディヴィジアB (2部) のダチア・ピテシュティから18歳の時にプロ生活を開始する。1季目は17試合5得点に終わったが、翌1999-2000シーズンには、ほぼ全試合に出場し、チーム最多の14得点でクラブを4位に導いた。ダチア・ピテシュティで50試合19得点を記録する活躍により、ディヴィジアA (1部) のFCアルジェシュ・ピテシュティと契約した。

アルジェシュ・ピテシュティ

CSガズ・メタン・メディアシュ戦 (2-1) で、加入後初にしてディヴィジアA初出場を飾る。アドリアン・ムトゥアドリアン・ネアガ英語版がそれぞれ名門のFCディナモ・ブカレストFCステアウア・ブカレストへ移籍後は主将を務めてチームを牽引し、89試合34試合を記録するプレーに国内の強豪の関心を集めた。

ステアウア・ブカレスト

2003年10月に移籍金25万ユーロで名門FCステアウア・ブカレストと冬からの加入で合意[2]し、ヴィクトル・ピツルカ監督の指導を受けることになる。途中加入した最初のシーズンは14試合9得点を記録し、ライバル関係にあるディナモ・ブカレストの後塵を拝し2位に終わったが、翌2003-04シーズンは、ファンとのいざこざから一時は退団を考えながらも11得点で優勝に貢献すると、次の2004-05シーズンは更に得点数を伸ばし、チーム最多にしてリーグ得点ランキング2位となる15得点で2連覇に大きく貢献した。

欧州カップ戦の方では、UEFAカップ2004-05において初出場を飾り、前回王者バレンシアCFを破りベスト16まで進出。翌2005-06シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06においてローゼンボリBKに敗れてグループリーグ進出ならずも、UEFAカップ2005-06にてRCランスSCヘーレンフェーンレアル・ベティスと次々と破り、宿敵FCラピド・ブカレストを下して準決勝に進出しており、ミドルズブラFCとの第1戦 (1-0) で決勝点を挙げた[3]。第2戦でも先制点を挙げ、ドリン・ゴヤンの追加点によって2-0としたが、最終的に2-4 (2試合合計3-4) で敗退した[4]UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07は、FCディナモ・キーウレアル・マドリードオリンピック・リヨンと同組になり厳しい戦いを強いられる中、6試合全てに出場したディカは、最初のFCディナモ・キーウ戦で2得点[5]を含む4得点1アシストを記録した。これらの活躍にアドリアン・ムトゥクリスティアン・キヴを抑えてルーマニア年間最優秀選手賞英語版を受賞[6][7]し、また、ルーマニアサッカー連盟と国内のスポーツプレス協会が選定するリーガ1年間最優秀選手賞をディナモ・ブカレストのクラウディウ・ニクレスクと共に受賞した[8][9]。しかし、この受賞から程なくして一変することになる。2007年1月23日にACシエナとの親善試合において、深刻な膝の負傷となった[10]ことでシーズン残りの大半を欠場し、自身の誕生日である5月9日のFCチェアラゥル・ピアトラ・ネアムツ戦まで離脱していた[11]

カターニア

2008年6月27日、過去に師事したワルター・ゼンガ監督率いるセリエAカルチョ・カターニアフアン・マヌエル・バルガスの後釜として移籍金250万ユーロの4年契約で合意する[12]。加入から半年で僅か93分の出場機会に制限されており、その為に1月の移籍市場で退団は確実かと思われていた。しかし、ゼンガ監督はディカを手元に置いておく考えから残留が決定、そして、その後の状況が改善することはなかった。

イラクリス・テッサロニキへの期限付き移籍

2009年5月4日、ステアウアで師事したオレグ・プロタソフ監督率いるギリシャ・スーパーリーグ (ギリシャ1部) のイラクリス・テッサロニキFCへ期限付き移籍に出される[13]。8月23日のパナシナイコスFC戦 (2-1) で初出場を飾ると共に2得点を挙げた[14]

CFRクルジュへの期限付き移籍

イラクリスで13試合3得点を記録した後、2010年1月にCFRクルジュへ2010年6月までの期限付き移籍に出される[15]。リーグ優勝を経験。リーグ戦で得点を生むことは出来なかったが、クパ・ロムニエイ準決勝第2戦のFCラピド・ブカレスト戦 (2-1) で初得点を挙げた。

マニサスポルへの期限付き移籍

2010年7月にマニサスポルへ2010-11シーズン終了までの期限付き移籍に出される[16]。しかし、出場機会を得るのに苦戦し、12月14日に契約解除となった[17]

ルーマニアに帰国

ステアウア・ブカレスト復帰

カターニアとの契約は残っていたが、2010年12月20日に契約解除で退団する[18]と、FCアストラと交渉していたが、24日に古巣ステアウアへの復帰が合意に達した[19]。冬の中断期間中に行われたFCシェリフ・ティラスポリとの親善試合において、ハットトリックを達成する[20]など好調さを見せた後、2月27日のFCウニヴェルシタテア・クラヨーヴァ戦 (1-0) で初出場を飾り、4月5日のFCウニレア・ウルジチェニ戦 (5-0) で初得点、5月1日のFCグロリア・プログレスル・ビストリツァ英語版戦 (3-1) で2得点を挙げた[21]。また、クパ・ロムニエイでは、5月11日のFCブラショフ戦で同点ゴールを挙げて決勝進出に貢献する[22]と、25日の宿敵ディナモ・ブカレストとの決勝戦ではフリーキックで先制点を挙げるなどでマン・オブ・ザ・マッチに選出される活躍でタイトル獲得に貢献した[23]。2010-11シーズン終了後に満了となる契約が延長されず、6月に退団となった[24]

ダチア・ミヴォニ

2011年6月23日にCSミオヴェニへ移籍[25]。2011-12シーズン開幕前に行われた親善試合のCSMリムニク・ヴィルチャ英語版戦 (2-0) において、ミヴォニでの初得点[26]、10月31日のCSコンコルディア・キアジナ戦においてペナルティーキックでリーグ戦初得点を挙げた[27][28]。2011年12月12日に契約解除することで口頭合意に達し[29]、2012年1月2日に正式に退団が決定した[28]

ヴィトルル・コンスタンツァ

2012年1月22日にリーガ2のFCヴィトルル・コンスタンツァと1年半契約を締結する[30]。2012-13シーズンに13試合6得点を記録し、チームのリーガ1昇格に貢献した。

現役引退後

2014-15シーズンに現役引退を表明し、2014年6月12日にコンスタンティン・ガルカ監督率いる古巣ステアウア・ブカレストのアシスタントにラウレンティウ・ロシュ英語版と共に就任する[31]。2015年5月25日、後任のミレル・ラドイ監督の下でも引き続きアシスタントを任された[32]。2017年5月15日、ステアウア・ブカレストの監督に就任した[33]

代表

Thumb
ゲンチャで行われたナイジェリア戦でのディカ

2003年10月11日の日本との親善試合でルーマニア代表デビュー[34]し、以来、32試合に出場する中で2006年のキプロスとの親善試合で初得点を挙げ、2007年11月21日のアルバニア戦、2008年5月31日のモンテネグロ戦ではそれぞれ2得点した。2007年1月にクラブでの試合において負傷したことにより、一時期代表から遠ざかっていたが、UEFA EURO 2008のメンバーに選出された。しかし、グループリーグのフランス戦、イタリア戦、オランダ戦の3試合全てが途中出場であり、グループリーグ2分1敗でチームは敗退となった。

私生活

2003年11月に結婚[35]し、第1子に長男、第2子に長女を授かった[36]

Remove ads

個人成績

要約
視点

クラブでの出場記録

出典:[37][38][39]

さらに見る クラブ, シーズン ...

代表での成績

出典:[40]

さらに見る ルーマニア代表, 年 ...

代表での得点

出典:[40]

さらに見る #, 開催日 ...

監督成績

2022年10月19日現在
さらに見る クラブ, 就任 ...
Remove ads

獲得タイトル

クラブ

FCステアウア・ブカレスト

CFRクルジュ

個人
  • ルーマニア年間最優秀選手賞英語版 : 2006

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads