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ハント級駆逐艦

イギリス海軍の護衛駆逐艦の艦級(1940年ー1963年)。 ウィキペディアから

ハント級駆逐艦
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ハント級駆逐艦英語: Hunt-class destroyer)は、イギリス海軍護衛駆逐艦の艦級。来るべき第二次世界大戦に備え、戦時急造を想定した低コストの小型駆逐艦で、当初は魚雷装備を持たず、防空対潜戦に重点がおかれていた。原型であるI型復原性改善と艦砲増備を図ったII型魚雷発射管を装備して対水上火力強化を図ったIII型ソーニクロフト社の独自色が強い派生型であるIV型と、4つのサブクラスがある[1][2]。計画段階では高速護衛艦: Fast Escort)と称されていたが、全艦がキツネ狩りに由来する艦名を冠することとなり、現在の艦級名が付されることとなった[3]。なお建造費は、III型では352,000ポンドであった[4]

概要 ハント級駆逐艦, 基本情報 ...
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来歴

要約
視点

護衛艦に関する検討

1937年、本国艦隊司令長官バックハウス大将は、戦時急造に適した小型の駆逐艦の建造について言及した。1938年に第一海軍卿に就任すると、この構想について本格的な研究を指示した[3]

当時、イギリス海軍は2種類の駆逐艦を必要としていた、一つは大型の艦隊型駆逐艦で、もう一つが輸送船団の護衛を行うための護衛駆逐艦であった。イギリス海軍ではもともと、ロンドン海軍軍縮条約での制約が駆逐艦よりも緩いスループを船団護衛に充当する方針で、1931年度から1934年度計画でグリムスビー級1933年度から1936年度計画でビターン級1936年度計画でイーグレット級、そして1938年度計画でブラックスワン級と順次に整備が進められていた。また1936年からは、第一次世界大戦中に建造されたV/W級駆逐艦を対空・対潜護衛艦に改装するWAIR改修も発動されていた[3]

しかし当時、艦隊型駆逐艦としては、新型艦砲を搭載するため大型で高コストのL級M級が建造されており、建造ペースは年に9隻という状況であったため旧式駆逐艦の代替が追いつかず、護衛艦として改装できる旧式駆逐艦にも限度があった[5]。このため、まず艦隊型駆逐艦として、設計をJ級I級の中間的なものに差し戻した中間的駆逐艦が検討された。これはのちに、O級を端緒とする戦時急造駆逐艦へと繋がっていくことになる[3]

一方、バックハウス第一海軍卿は、依然として廉価型・小型駆逐艦という構想を温めており、1938年5月にグドール造艦局長(DNC)に対して試案の作成を指示した[3]。当時駆逐艦設計部門長であったコール造船官は「このような艦は安価にならず、砲兵装の供給不足も起きているため、最初の艦が就役するのは最初の設計図が出来てから2年半はかかる」と指摘したものの設計作業は進み、9月には「QF 4インチ連装両用砲」2基と12.7mm4連装機銃2基を搭載した25ノット艦案、加えて4連装魚雷発射管を1基搭載した30ノット艦案の2つが固まった。両案は悪天候時にも航洋性を保つため、フィンスタビライザーの搭載が予定されていた[5]

同年9月28日には30ノット案を元に両用連装砲3基とし魚雷発射管を取りやめる認可が軍令部長によって裁可され、改設計案がまとめられた。しかしこの改設計案を見たグドール造艦局長は全長を83m、建造費を当時建造中であったJ級K級駆逐艦並の39万ポンドに抑え、合わせて兵装と航続力についても再検討するよう命じた。この結果航続力は就役後に航続力不足に悩まされるほど必要最低限なレベルに削減されたが、ソナーや爆雷の装備、弾薬量の増加、乗員増加によるスペース確保等の追加要求により最終的な予定建造費は40万ポンドまで膨らんだ[5]。この時点での計画兵装は4インチ連装両用砲3基、12.7mm4連装機銃2基、爆雷投射機2基、投下軌条1条、爆雷20個であり、18,000馬力で最大速力29ノットであった[6]

許容された問題点

設計案を確認する為に行われた模型による水槽実験では、船体抵抗が予想以上に大きく根本的な設計をやり直す恐れが出た。再計算が行われた結果、出力と速度関係問題はなくプロペラ形状の調整で当初の性能が発揮されること、加えて波の打撃による船体疲労も許容範囲であり再設計は必要ないことが確認された。この時主設計者のバッサン造船官は、「本級は他の全駆逐艦より勝る船体形状である」と語ったという[7]。1939年1月には対空兵装の強化として、12.7mm4連装機銃に変えてヴィッカース QF 2ポンド・ポンポン砲39口径40mm機銃)を追加搭載し、爆雷数も30個に増加した。更に、これらによる速度低下を防ぐため出力は19,000馬力へと引き上げられた[6][7]。その結果復元性が悪化し乗員スペースが減少、更に建造費が2万ポンド増加するなどの問題が現れたが、これらも許容範囲内とされたまま、ハント級の設計案は1939年2月8日に認可されることとなった[7]

認可された同日に設計図は5つの造船所に送られたが、造船所は「設計案の機関重量270トンや船体重量460トンは軽すぎであり、それぞれ290トンと475トンに増大するべきだ」と海軍側に指摘した。この事態は海軍側でも認識されており、グドール造艦局長自身の見積もりでも船体重量が487トン程度になると考えられていたが、製鋼所で鋼材を公称寸法に加工できれば重量削減が可能であるという指摘があったため、承認を行っていた。また造船所はハント級の建造費についても、「(当時J級・K級より高額な建造費となっていた)L級駆逐艦よりトン単価が高くなる」と指摘した。海軍側と造船所の調整により使用する鋼材をD鋼に変える等の対策が行われ、建造費も先述の対策や量産効果もあって39万7000ポンドまで減少することとなった。これらにより1939年3月にはハント級の設計問題は解決したという合意が海軍側と造船所でなされた[8]

1939年6月に9隻が起工されたのを皮切りに建造が始まり、39年末の時点で建造計画数は59隻にまで達していた。第二次世界大戦が開戦した時点では18隻が起工しており、1番艦「アサーストン」は1939年12月12日に進水、翌年2月4日より海上公試が開始された。しかしこの公試の結果、致命的な復原性不足が判明したことから、#設計で述べるような大規模な改修が実施されることになり、「アサーストン」以外の22隻は復原性改善対策の改正内容決定するまで建造中止とされた[8]。「アサートン」は改修を経て、3月25日より公試を再開した。その成果は良好であり、残りの22隻も同様の改正を受けて建造を再開することになり、1941年末までに23隻が完成した[8]。これらは後にI型と区分されるようになった。また1939年9月4日以降の発注分では、スワン・ハンター社により改良された設計が適用されており、II型と称される[3]

その後、1940年4月には、戦訓を踏まえて要求事項が改訂され、これを適用したIII型は1940年7月4日より順次に発注された。また7月28日には、本来ブラックスワン級スループ向けであった2隻分の契約が本級に振り替えられ、こちらはソーニクロフト社独自のT1306と称される設計を海軍本部が若干手直しして採用したIV型となった[3]

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設計

船型は船首楼甲板型で、特にIV型は艦内容積確保と凌波性向上のため長船首楼型とされた[9]。また巡航性能向上のためトランサム・スターンが採用されており、これによって、基準排水量状態であれば全速時(32ノット)で0.5パーセント、巡航時(20ノット)で1.5パーセントの抵抗減少となっており、満載状態では更に有効であった[3]

しかし上記の通り、1番艦の海上公試の結果、艦の復原性が致命的に不足していることが判明したことから、大規模な改修が必要になった。検証の結果、これは建造途中の重量増のせいではなく、抜本的な設計ミスに起因することが判明した。砲熕兵器を維持したまま復原性を改善するには工程が進みすぎていた[10]。このため、「アサーストン」では2番砲を廃止、3番砲の架台も撤去し、後部上構や煙突を減高すると共にバラストを搭載した[3][8]。この結果、満載排水量が増加して速度の低下に繋がったが、復原性は改善された[10]。II型は、スワン・ハンター社により改良された設計を採用しており、船体幅を広げることで、復原性を保ちつつ当初予定どおりに45口径10.2cm連装砲3基の搭載を可能としている。III型もこれを修正した設計を採用した。なお上記の通り、当初設計ではフィンスタビライザーの装備が盛り込まれていたものの、実運用での成績が芳しくなく、後期建造艦では撤去されて、そのスペースは燃料タンクに転用された[3]

機関部は各型とも共通であり、ボイラーアドミラルティ式3胴型水管ボイラー2缶、蒸気性状は当時の標準であった圧力300 lbf/in2 (21 kgf/cm2)、温度326.7℃であった。主機はパーソンズ式衝動反動式オール・ギヤード・タービン、2軸推進艦であった[11]

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装備

艦砲としては、ブラックスワン級スループと同様に45口径10.2cm砲(QF 4インチ砲Mk.XVI)を最大仰角80度のCP Mk.XIX連装砲架と組み合わせて3基搭載する予定であったが、上記の経緯によりI型では2基に削減された。またIII型でも、対艦兵器として21インチ3連装魚雷発射管を搭載する代償として、やはり2基に削減されている。なお小型・廉価な護衛駆逐艦であることから射撃指揮装置はやや簡素化されており、方位盤トライバル級に準じた機種に差し戻されたうえに対水上用の方位盤を省き、285型レーダーを備えたMk.V**方位盤のみとなった。また射撃盤の構成も簡素化され、対空用は従来の駆逐艦と同様にFKC Mk.IIIを搭載したが、対水上用としては、スループ向けと同系統のFCB Mk.II(Fire Control Box)が搭載された。これは、並行して計画が進められていた中間的駆逐艦と同構成であった[3]

対空兵器としては、上記の経緯により、39口径40mm4連装機銃(QF 2ポンド・ポンポン砲)が搭載されることとなった。開戦後には両舷に70口径20mm単装機銃が追加装備されたほか、魚雷艇対策として、多くの艦では艦首側に39口径40mm単装機銃も追加された。また「メイネル」では39口径40mm4連装機銃を56口径40mm連装機銃に換装したほか、「ビューフォート」「エクスモア」でも56口径40mm単装機銃が追加装備された[1]

大戦期の他の戦闘艦と同様、レーダー(RDF)や短波方向探知機(HF/DF)といった電波を用いたセンサーが順次搭載されたが、艦隊駆逐艦と比して余裕が少なく、早期警戒レーダー(281型など)と目標捕捉レーダー(271型など)、短波方向探知機の全てを併載することはできなかった[3]

諸元表

さらに見る I型, II型 ...
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同型艦一覧

さらに見る 設計, 艦名 ...
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出典

参考文献

関連項目

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