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ヒッポ・ボーン

アメリカ合衆国の野球選手 (1888-1966) ウィキペディアから

ヒッポ・ボーン
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ヒッポ・ボーン(James Leslie "Hippo" Vaughn ,1888年4月9日 - 1966年5月29日)は、主に1910年代に活躍したアメリカメジャーリーグの野球選手。ポジションは投手テキサス州ウェザフォード生まれ。左投げ、スイッチヒッター。大柄でずんぐりした体型から"Hippo"(ヒッポ=カバ)のニックネームで呼ばれた。主にシカゴ・カブスで活躍し、1918年にナショナルリーグ投手三冠を獲得した。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

ハイランダース時代

ボーンはテキサス州の石工の息子で、8人兄弟の一人として生まれた。地元の学校を卒業した後1906年にテキサスリーグにデビューし、プロの投手として投げ始める。翌1907年にアーカンソー州のリーグで好成績を上げ、同年ニューヨーク・ハイランダースが獲得、1908年にメジャーリーグにデビューしたが、この年は2試合に投げただけでマイナーに降格。1909年はメジャーで登板しなかったものの、マイナーリーグで無安打試合を2試合記録して、翌年再びハイランダースに昇格した。

1910年には13勝11敗と1点台の防御率を記録したが、その後好調は続かず、1912年のシーズン中にボーンはハイランダースから放出され、セネタースを経て再びマイナーリーグに降格する。しかしボーンは1913年にマイナーリーグのカンザスシティで再び無安打試合を達成、すぐにシカゴ・カブスがボーンを獲得し、カブスで7試合に登板したボーンは5勝1敗、防御率1.45の成績を挙げた。

カブス時代

カブスに移籍してからのボーンの活躍はめざましく、8年間の在籍期間で20勝を5度記録した。特に1917年5月2日にウィーグマン・パーク(現リグレー・フィールド)で行われた対シンシナティ・レッズ戦はボーンの登板試合として有名である。この試合ボーンはシンシナティのフレッド・トニーと9回までノーヒットで投げあう投手戦を演じた。しかし延長10回に入ってボーンが打ち込まれ、相手のフレッド・トニーはこの試合でノーヒットノーランを達成した。

翌1918年はピート・アレクサンダーがカブスに移籍したが、ほどなく第一次世界大戦に派兵されたため、ボーンが一人でカブスの投手陣を支えることになる。この年ボーンはナショナルリーグの最多勝最優秀防御率最多奪三振の3つの部門でリーグ最高の成績を収め、1919年には前年に続いて2年連続のリーグ最多奪三振を記録した。しかしカブスで活躍できたのは1920年までで、1921年には3勝11敗と不振に陥り、私生活での問題がメディアに取り上げられるなどしたことから、ボーンはこの年のシーズン途中でカブスを退団することになった。

引退後

メジャーリーグを離れた後、ボーンはマイナーリーグやセミプロのチームを転々とし、49歳まで試合に出場していた。選手を辞めた後は、シカゴで冷凍機械のメーカーに勤めていたそうである。1966年に死去。

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・記録

打撃成績

  • 通算成績:392試合、921打数159安打、本塁打3、打点61、打率.173
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出典・外部リンク

先代
ピート・アレクサンダー
ナ・リーグ最多勝利
1918年
次代
ジェシー・バーンズ
先代
フレッド・アンダーソン
ナ・リーグ最優秀防御率
1918年
次代
ピート・アレクサンダー
先代
ピート・アレクサンダー
ナ・リーグ最多奪三振
1918年 - 1919年
次代
ピート・アレクサンダー
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