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フェリーいきつき
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株式会社フェリーいきつきは、かつて長崎県生月町に本社を置き、フェリー航路を運営した会社である。本項では、運航した航路を中心に、生月・舘浦漁業協同組合運航の時期を含めて解説する。
概要
平戸島の二次離島である生月島と平戸島を連絡する航路は、戦後1955年(昭和30年)に生月運輸株式会社から生月漁業協同組合に譲渡された[1]後、25年に渡って漁協による運営が行われ、舘浦漁業協同組合を経て、1980年(昭和55年)に運航会社として株式会社フェリーいきつきが設立[2][3]された。
旅客船時代は、長く生月島の壱部浦、舘浦と平戸島の平戸港、九州本土の田平港を結ぶ航路であったが、1970年(昭和45年)に薄香港(平戸島)発着の航路を開設、1972年(昭和47年)にフェリーが就航し、1977年(昭和52年)に平戸大橋が開通すると、平戸・田平に代わって、航路距離の短い薄香発着が主力となった。しばらくは田平発着便も残されたが、1980年頃に廃止された[4][5]。
1991年(平成3年)に生月大橋が開通し、生月島が平戸島と陸路で結ばれたのに伴い、航路は廃止された。生月島には、その後も野母商船の博多 - 五島航路が舘浦に寄港していたが、2007年(平成19年)に東行便を最後に抜港となり、定期旅客航路は皆無となっている。
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航路
廃止時点の航路
- 薄香(平戸島) - 壱部浦(生月島) - 舘浦(生月島)
- 航路距離15.7km、所要時間35 - 45分(直航)。
- 生月島の2港は便によって発着順序の前後、寄港有無があった。
過去の航路
- 田平 - 平戸 - 壱部浦 - 舘浦
- 航路距離27.6km
- 最終的には平戸抜港、一日1往復となっていた[4]。
船舶
フェリー
- フェリーいきつき[6]
- 1972年7月31日就航、前畑造船建造。船舶整備公団共有。
- 299.20総トン、全長37.30m、型幅8.20m、型深さ3.10m、ディーゼル2基、機関出力1,500ps、航海速力13.90ノット。
- 旅客定員407名、10tトラック1台・乗用車2台または乗用車8台。
- 第二フェリーいきつき[6]
- 1967年6月竣工、1977年買船、中村造船鉄工所建造。船舶整備公団共有。もと東日本海フェリー「奥尻丸」。
- 327.61総トン、全長40.50m、型幅9.20m、型深さ3.10m、ディーゼル2基、機関出力1,000ps、航海速力12.9ノット。
- 旅客定員300名、大型バス1台・乗用車3台または乗用車15台。
- 第三フェリーいきつき
- 1969年8月進水、1980年3月15日就航(買船)。もと中倉商店の田平 - 平戸貨物フェリー「第八弘丸」。
- 72.91総トン、ディーゼル1基、機関出力230ps、航海速力9.00ノット。
- 旅客定員50名、乗用車8台。
- 第五フェリーいきつき[7]
- 1974年12月竣工、1986年2月2日就航(買船)。臼杵鉄工所建造。もと国鉄仁堀航路「瀬戸丸」。
- 496総トン、全長44.10m、型幅10.20m、型深さ3.50m、ディーゼル1基、機関出力2,000ps、航海速力12.8ノット。
- 旅客定員297名、乗用車12台。
- 第八フェリーいきつき[7]
旅客船
- 生運丸[9]
- 1948年10月進水、木造。
- 83.43総トン、焼玉機関、機関出力170ps、旅客定員89名。
- いきつき丸[10]
- 1955年11月進水。
- 79.90総トン、ディーゼル1基、機関出力270ps、旅客定員77名。
- 引退後、大島村に売船、「大島丸」に改名。
脚注
出典
関連項目
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