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フランス・ギャル
フランスの女性歌手 ウィキペディアから
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フランス・ギャル(France Gall, 本名:イザベル・ジュヌヴィエーヴ・マリ・アンヌ・ギャル(Isabelle Geneviève Marie Anne Gall)、1947年10月9日 - 2018年1月7日[1])はフランスの歌手である。初期の代表曲には「夢見るシャンソン人形」(この曲で第10回ユーロビジョン・ソング・コンテスト優勝)がある。

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概要
要約
視点


フランス・ギャルは、1947年にフランスのパリ12区で生まれた。父は作詞家のロベール・ギャル。母はセシル・ベルティエ(パリ木の十字架少年合唱団の共同設立者として知られるポール・ベルティエの娘)。1963年に、フィリップスより「Ne Sois Pas Si Bête(恋のお返し)」でデビュー。
1964年には、「フランスにおける学校の創始者」とされるシャルルマーニュ(カール大帝)に対して学校で勉強することに関する不満を歌う「Sacré Charlemagne(シャルマーニュ大王)」(作詞は父親のロベール・ギャル)が大ヒットした[2]。
1965年にイタリアで行われた第10回ユーロビジョン・ソング・コンテストにルクセンブルク代表として出場し、父親の知人であったセルジュ・ゲンスブール提供の「Poupée de cire, Poupée de son(夢見るシャンソン人形)」を歌い優勝した(#優勝者一覧)[2]。同曲は日本語盤も発売され、1966年6月に来日公演。
60年代後半には、ドイツ語、イタリア語、スペイン語バージョンの曲も吹き込み、また、1967年から1972年まではドイツのDECCAとも契約して、ドイツ語オリジナル曲を数多く発売した。
1968年にフィリップスを離れ、La Compagnie、Atlantic、Pathe - EMI Music France、Atlantic=WEA、と移籍を繰り返した。1970年代に入り作曲家のミッシェル・ベルジェと知り合い、彼のプロデュースのもと本格的な歌手として再スタートを切り絶大な支持を得る。1976年にベルジェと結婚。その後長女・ポーリーヌ (1978年11月14日 - 1997年12月18日)と長男ラファエル(1981年4月2日 - )の2児を授かった[2]。
1985年、日本においてホンダが同社の製品のバラード・スポーツCR-X SiのテレビCMのバックミュージックとして「Attends ou va-t'en(涙のシャンソン日記)」を採用した。
1996年、ジャン=リュック・ゴダールが「Plus Haut(もっと高く)」(1980年録音)のプロモーションフィルムを撮影した。
1992年に夫ベルジェが死去。さらに1997年には娘のポーリーヌを嚢胞性線維症で亡くす[2]。また自身も1990年代半ばに乳癌を患い、以降は表舞台に出ることはなく、実質上の引退状態となった。その後は数々の人道支援プロジェクトに参加した[3]。
映画『ゲンスブールと女たち』(2010年)と『最後のマイ・ウェイ』(2012年)で[4][5]、サラ・フォレスティエとジョセフィーヌ・ジャピが、それぞれフランス・ギャルを演じた[6]。
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ギャラリー
カラー化画像
ユーロビジョン・ソング・コンテスト1965 で優勝しメダルを手にするフランス・ギャル(1965年10月19日)
優勝後にセルジュ・ゲンスブール(左)と(1965年3月21日、イタリア)
アムステルダムのスキポール空港にて(1965年5月17日)
日本盤ディスコグラフィ
シングル
EP(4曲入りシングル)
アルバム
コンピレーション
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EU盤ディスコグラフィ
要約
視点
シングル
オリジナル・アルバム
ライブ・アルバム
主なコンピレーション
→詳細はフランス語サイトを参照
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DVD
- France Gall bercy 93(1994)
関連項目
- セルジュ・ゲンスブール
- フレンチ・ポップス
- フレンチロリータ
- ひそねとまそたん 「Le temps de la rentrée〜恋の家路(新学期)〜」がエンディングテーマとしてカヴァーされている。
出典
外部リンク
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