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ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)

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ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)
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第3代バサースト伯爵ヘンリー・バサースト: Henry Bathurst, 3rd Earl Bathurst1762年5月22日 - 1834年7月27日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官

概要 第3代バサースト伯爵 ヘンリー・バサーストHenry Bathurst, 3rd Earl Bathurst, 生年月日 ...

1794年にバサースト伯爵を襲爵するまでは、「アプスリー卿」(Lord Apsley)の儀礼称号で称されていた。

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経歴

要約
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大法官枢密院議長を務めた法律家・政治家の第2代バサースト伯爵ヘンリー・バサーストと、妻のトライフィーナの間に生まれる[1][2][3][4]イートン・カレッジを経て、1773年から1778年までオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[1]

1783年から襲爵により貴族院に移る1794年まで、グロスタシャーサイレンスター選挙区選出の庶民院議員[5][6][3]議会ではトーリー党に所属。

ウィリアム・ピット (小ピット) と親しく[2][3][4]、彼の下で1783年から1789年まで海軍本部委員(Lord of the Admiralty[7][8][9]1789年から1791年まで大蔵卿委員Lord of the Treasury[10]1793年から1802年までインド庁英語版の委員[1][2][3][4]を務めた。1804年に小ピットが再び首相となると、バサーストは王立造幣局長(Master of the Mint[1][3][4]に任じられた。

第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク1807年に組織した第2次内閣では商務庁長官[11]兼王立造幣局長[1][3][4]として入閣、次のスペンサー・パーシヴァル内閣英語版においても両方の職を引き続き務めた。また1809年には、外務大臣ジョージ・カニング陸軍・植民地大臣のカースルレー子爵ロバート・ステュアート決闘事件を起こして辞職したことを受け、2ヶ月間外相[12]を兼ねた。

1812年、第2代リヴァプール伯爵ロバート・ジェンキンソン内閣英語版において陸軍・植民地大臣[13]として入閣。バサーストは有能な大臣であり[6][2][3][4]半島戦争のさなか陸軍を担当する閣僚としての職務を全うした。次官のヘンリー・ゴールバーン英語版とともに陸軍・植民地省の改革も行い、青書Blue book)を導入した。ゴールバーンの後任の次官となったロバート・ウィルモット=ホートン英語版は、バサーストを以前この職を務めた誰よりも注目に値すると評した[2]。また彼は人道的見地から奴隷制度廃止運動を支持していた[3]

初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー1828年に組織した内閣英語版では枢密院議長[14]として入閣。トーリー所属でありつつもカトリック解放に賛成の立場をとっていたが、第1回選挙法改正案(Reform Bill; 選挙法改正法案)には強く反対した[3][4]1830年に退任し、政治家としてのキャリアを終えた。

1793年枢密顧問官[1]に列せられ、1817年ガーター勲章[15]を授けられた。

1834年ロンドンで死去、グロスタシャー州のサイレンスターに葬られた。爵位は長男のヘンリー英語版が相続した。

オーストラリアニューサウスウェールズ州にあるバサースト郡英語版およびバサースト市[16]ノーザンテリトリー(北部準州)にあるバサースト島英語版[17]カナダニューブランズウィック州にあるバサースト[18]ヌナブト準州にあるバサースト島[19]ガンビアの首都バンジュールの旧名バサースト[20]は、彼を記念して名づけられた。

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家族

バサーストは1789年4月にレディ・ジョージアナ・レノックス(1765年 - 1841年)と結婚した[1][3][4]。彼女は第2代リッチモンド公チャールズ・レノックスの次男ジョージ・レノックス英語版卿の娘であった。

夫妻は四男二女をもうけ、長男のヘンリーが第4代バサースト伯爵に、ついで次男のウィリアム英語版が第5代バサースト伯爵となった[1][3]

出典

外部リンク

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