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ボージャン・クルキッチ
スペインのサッカー選手 ウィキペディアから
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ボージャン・クルキッチ・ペレス(Bojan Krkić Pérez, 1990年8月28日 - )は、スペイン・カタルーニャ州リェイダ県出身の元プロサッカー選手。ポジションはフォワード。元スペイン代表。
FCバルセロナ史上最年少得点記録保持者であり、同クラブで史上最年少でラ・リーガ100試合出場を達成した[1]。
FCバルセロナの下部組織では900得点以上記録している。
日本語表記としてはカタルーニャ語の発音によるボージャン・ケルキックのほか、セルビア語に基づくボヤン・クルキッチと表記されることもある。
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経歴
要約
視点
幼少のころに名門FCバルセロナに入団し、カンテラの各カテゴリの得点記録を軒並み塗り替え、バルセロナの若手有望株と期待された。特に2006年に昇格したセカンドチームであるバルセロナBではセンターフォワードのレギュラーポジションに定着し、22試合で10ゴールとジョバニ・ドス・サントスらとともにオフェンスの中心を担う活躍をみせるなど、カンテラ通算7年間(1999年~2006年)で900点以上をあげた[2]。
この活躍が評価され、2007-08シーズンからはわずか16歳にしてドス・サントスと共にトップチームへの昇格し、直後のプレシーズンマッチ第2戦のハーツ戦にて得点に絡む活躍を見せている。
リーガ・エスパニョーラでデビューを果たしたのは2007年9月16日のリーガ第3節CAオサスナ戦であり、17歳と18日という若さでのデビューとなった。また、その3日後の9月19日に行われたオリンピック・リヨン戦でUEFAチャンピオンズリーグのデビューを果たした。
そして、それから1ヵ月後の10月20日、リーガ第8節ビジャレアルCF戦で得点を挙げてクラブ最年少得点記録を更新した。この初ゴールのアシストは、それまでの記録保持者であるリオネル・メッシであった。この2007-08シーズンではリーガデビューからコンスタントに試合に出場し、リーガ10ゴールを挙げるなどトップチームに定着するに至った。これは同じく17歳でデビューしたラウル・ゴンサレスの9ゴールを抜きリーガ・エスパニョーラの新人記録となった。
なお、デビュー時点では、スペインの労働法により18歳未満とはプロ契約を結べなかった為、バルセロナとプロ契約をしていなかった。このため、マンチェスター・ユナイテッドやアーセナル、チェルシーといったイングランドのクラブがボージャンを獲得しようとしたが、本人はバルセロナを離れるつもりはないと明言し、最終的には18歳になった直後にバルセロナとプロ契約を結んだ。
2008-09シーズンからジャンルカ・ザンブロッタの移籍に伴い、背番号を11番へ変更した。
スペイン代表には2008年2月のフランスとの親善試合で初めて招集され、代表の最年少出場記録更新が期待されたものの、体調を崩したため出場することはなかった。EURO2008でも招集が決まっていたが辞退している。これについては後にインタビューで不安発作が原因であったことを明かしている[3][4]。その後、2008年9月10日の2010 FIFAワールドカップ予選のアルメニア戦で代表デビューを果たした。
2010-11シーズンから背番号を移籍したズラタン・イブラヒモビッチが付けていた9番に変更した。2010年12月にはFCバルセロナとの契約を2015年まで延長。契約解除金はそれまでの8000万ユーロから増額され、1億ユーロに設定された[5]。2011年3月リーガエスパニョーラ第29節ヘタフェ戦で、クラブ史上最年少でリーガ100試合出場を遂げ、「本当に素晴らしい夜だった。僕にとっても、チームにとってもこのような試合は必要だったんだ。ピッチに立てて、それもゴールを決められてうれしいよ。100試合出場だって気付いたときは、鳥肌が立ったんだ。それもバルサでの100試合出場。これまでやってきた自分の仕事を、とても誇らしく思っている。これだけ早く100試合出場を達成できたのは、サポーターのおかげだ。いつもファンから愛されていると感じてきたし、そのことが僕に戦い続ける力を与えてくれているんだ」とコメントした[6]。
2011年7月22日、出場機会を求めてルイス・エンリケ率いるASローマに1200万ユーロで移籍[7]。なお、この移籍契約には2012-13シーズン終了後にFCバルセロナが1300万ユーロで義務的買戻しを実行する条項が含まれている。 この買戻しはASローマによって阻止することは可能だが、その場合は移籍金の総額が4000万ユーロへと増額される[8]。10月1日、アタランタBC戦においてダニエレ・デ・ロッシからのアシストで移籍後初ゴールを記録した。
2012年8月30日、ASローマからACミランにレンタル移籍[9]。1シーズンのこのレンタル移籍に関して、ローマとバルセロナの間の前述の契約内容に影響は無い旨、レンタル発表時にFCバルセロナは公式サイトで伝えている[10]。
2013年7月にバルセロナへ復帰し、同月6日にアヤックスへ1年間のレンタルで加入した[11]。
2014年7月22日、ストーク・シティFCに4年契約で移籍した[12]。8月16日のアストン・ヴィラ戦でプレミアリーグデビューを果たし、11月9日のトッテナム・ホットスパー戦では初ゴールを挙げた。2015-16シーズンには前半戦終了時点で5得点を記録するなど好調さを見せ、2016年2月11日には契約を2020年まで延長した[13]。しかし翌2016-17シーズンには出場機会が減少し半年で9試合の出場に終わった。
2017年1月30日、1.FSVマインツ05に半年間の期限付き移籍で加入した[14]。
2017年8月31日、デポルティーボ・アラベスに1年間のローンで移籍した[15]。
2019年8月6日、ストークとの契約を解消し、退団したことを発表[16]。同月7日にモントリオール・インパクトと契約したことが発表された。契約期間は2020年12月末まで[17]。9月25日のカナディアン・チャンピオンシップ決勝戦2ndレグ(対トロントFC)ではPK戦の1番手を務めて成功し、優勝に貢献した[18]。クラブからの契約延長オプション行使の申し出もあったが、これを拒否したため2020年12月31日に契約満了となった。冬の移籍市場でヨーロッパ復帰を模索したが、移籍期間中には合意に至らなかった[19]。
2021年8月9日、Jリーグのヴィッセル神戸への加入が発表された[20][21]。9月5日、J1リーグ第24節のサンフレッチェ広島戦で途中出場でJリーグデビュー。10月2日、第31節の浦和レッズ戦で移籍後初ゴールを決めた。チームにフィットしてきた矢先、10月24日の名古屋グランパス戦で負傷。そのまま離脱となり1年目のシーズンは、6試合1得点で終えた[22]。
2022年は、主にMFの位置で起用されることが多く、5月14日に行われた第13節鳥栖戦ではFW大迫勇也のシーズン初得点をアシストした。7月13日に行われた天皇杯ラウンド16・柏レイソル戦でシュートを放った際に負傷し帰国。左ひざ内側半月板損傷の診断を受け2年連続での長期離脱となった[23]。12月27日、契約満了により神戸を退団することが発表された。
2023年3月23日、現役引退を発表した。
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エピソード
個人成績
- 2021年9月2日現在
- Jリーグ初出場 - 2021年9月5日 J1第24節 サンフレッチェ広島戦(エディオンスタジアム広島)
- 初得点 - 2021年10月2日 J1第31節 浦和レッズ戦(ノエビアスタジアム神戸)
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(2008年)[27]
タイトル

クラブ
- FCバルセロナ
- プリメーラ・ディビシオン:3回(2008-09, 2009-10, 2010-11)
- コパ・デル・レイ:1回(2008-09)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2回(2009, 2010)
- UEFAチャンピオンズリーグ:2回(2008-09, 2010-11)
- FIFAクラブワールドカップ:1回(2009)
- UEFAスーパーカップ:1回(2009)
- アヤックス
- ヨハン・クライフ・スハール:1回 (2013)
- エールディヴィジ:1回 (2013-14)
- モントリオール・インパクト
- カナディアン・チャンピオンシップ:1回 (2019)
代表
- U-17スペイン代表
- U-21スペイン代表
個人
- UEFA U-17欧州選手権大会最優秀選手:1回 (2007)
- FIFA U-17ワールドカップ・ブロンズボール:1回 (2007)
- FIFA U-17ワールドカップ・ブロンズシューズ:1回 (2007)
- リーガ・エスパニョーラ ブレイクスルー選手:1回 (2007-08)
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脚注
関連項目
外部リンク
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