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マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ
ブラジルのサッカー選手 ウィキペディアから
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マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ(Magno Alves de Araújo、1976年1月13日 - )は、ブラジル・バイーア州出身で元同国代表の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。

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経歴
地元のハトランスを経て、1995年にサンパウロ州のヴァリーニョスでプロ選手となる。プロ入り当時のポジションは右サイドミッドフィールダーだった。
1998年より在籍したフルミネンセFCでは、2000年にブラジル全国選手権で20ゴールを挙げて得点王となり、プラカール誌のボーラ・ジ・プラッタ(ベストイレブン)にも選出された[3]。2002年にはロマーリオと2トップを組み注目を集め、リオデジャネイロ州選手権で優勝した。2001年、ブラジル代表に選ばれ、FIFAコンフェデレーションズカップで3試合に出場。
2003年、初の海外移籍となる全北現代モータースへと移籍。得点ランキング2位となる27得点を記録し「サンバ特急」の異名をとった[4]。
2004年、大分トリニータへ移籍し、開幕戦となった3月13日の柏レイソル戦で初出場、初ゴールを決めた[5]。年間11得点を記録。2年目の2005年は18得点を記録し、チームの中心として貢献した。
2006年、2年間所属した大分の財政難もあり、ガンバ大阪に完全移籍。AFCチャンピオンズリーグにおいて、チームはGL敗退となったが、8得点を記録し得点王。Jリーグにおいても、3月12日セレッソ大阪戦、11月26日の京都サンガFC戦とシーズン中2度ハットトリックを決めるなど[6]、26得点を挙げ得点王に輝いた。入れ替わりに移籍し、前年の得点王だったアラウージョとプレースタイルは違うものの、ストライカーとして活躍した。
2007年も序盤はエースストライカーとして活躍も、故障が重なり満足な成績を上げられずにいた。そんな中、シーズン終盤の11月21日から練習を無断欠席してサウジアラビアに渡り、サウジ・リーグのアル・イテハドと仮契約を結んでいたことが判明 。契約違反であるとして、同月23日付けで制裁金を課された上でG大阪を解雇された。
移籍先のアル・イテハドではシーズン途中での選手登録であるにもかかわらず、サウジ・リーグアル・ナスル戦(2008年1月3日)での1試合4得点を含むリーグ9位タイとなる通算9得点(カップ戦を含めば10得点)を挙げるなど、エースストライカーとして活躍した。しかしイスラームの厳しい戒律に耐えられず、2008年6月にカタールのウム・サラルSCにわずか半年で移籍した。
ウム・サラルでも攻撃の中心選手として活躍し、2008-09シーズンのカタールリーグで得点王を獲得した。
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人物・エピソード
![]() | この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 2002年、リオデジャネイロ州選手権のサンタ・クルス戦では1試合で5ゴールを挙げている。
- 大分トリニータ時代、チームスポンサーでもあったレストラン・ジョイフルの大分市内の店舗へたびたび家族で食事に訪れていた。好きなメニューは「みぞれチキンステーキ」で、いつも決まって注文しているのをサポーターなどに頻繁に目撃されていた。
- 2004年のオフシーズンの移籍騒動で、サポーターが練習場に残留を求める横断幕を掲げた。感動したマグノは、自宅で妻と去就を相談する際に涙したという。年末、「残留するなら、それはサポーターの為だ」との言葉を残し帰国。結局翌2005年も大分でプレーした。
- 2005年J1リーグ第23節浦和レッズ戦、厳しい残留争いをする中、自らのゴールで1ヶ月ぶりの勝利をもたらす。その後インタビューで「浦和という強いチームに勝てた。まだトリニータは死んでいない。これからと言いたい」とコメントした。これは、いまだに大分サポーターに語り継がれている。
- ガンバ大阪に移籍後、前年得点王のアラウージョと比較されていることに対して「彼は過去のこと」と発言したり、チームメイトとなった播戸竜二は「マグノには、(播戸が)10点取るまで全く相手にしてもらえなかった」と語るなど、ストライカーとしてのプライドをうかがわせるエピソードも多い。
- 敬虔なクリスチャンとして知られている。一方で激しい闘争心の持ち主でもあり、2006年J1リーグ第3節で古巣大分戦で1-3で敗れた際は、試合後同僚のフェルナンジーニョにつかみ掛かっている。
- 2006年のJ1リーグ得点王を分け合った浦和レッズのワシントンとは2001年のコンフェデレーションズカップでセレソンの2トップを組んだ間柄だった(ワシントンからは「スピードがあり、上手い」と賞賛されている)。
- 清水エスパルスからは2004年(大分トリニータ)、2007年(ガンバ大阪)、2008年(アル・イテハド)と3度オファーを受けたが、全て断っている。
- ウム・サラル会長でカタール王族のファイサル・ビン・ハマドからは「マグノがいなければチームは勝てない。引退するまでうちでプレーして欲しい」と絶大な信頼を寄せられていた。
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個人成績
- 出場歴
- その他の公式戦
- 2006年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2007年
- スーパーカップ 1試合3得点
その他の国際公式戦
- 2006年
- A3チャンピオンズカップ 3試合2得点
代表歴
- ブラジル代表
- 2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ (3試合0得点)
試合数
- 国際Aマッチ 3試合(2001年)[7]
タイトル
クラブ
- フルミネンセ
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエC:1回 (1999年)
- カンピオナート・カリオカ:1回 (2002年)
- 全北現代モータース
- 韓国FAカップ:1回 (2003年)
- ガンバ大阪
- ナビスコカップ:1回 (2007年)
- ゼロックススーパーカップ:1回 (2007年)
- アル・イテハド
- サウジ・プロフェッショナルリーグ:1回 (2007年)
- セアラー
- カンピオナート・セアレンセ:3回 (2013年、2014年、2017年)
個人
- ブラジル全国選手権セリエA 得点王:1回 (2000年 20得点)
- ブラジル全国選手権セリエA ボーラ・ジ・プラッタ (ベストイレブン):1回 (2000年)
- Kリーグベストイレブン:1回 (2003年)
- Kリーグベストストライカー賞1回 (2003年)
- Jリーグ得点王:1回 (2006年)
- Jリーグ優秀選手賞:2回 (2005年 - 2006年)
- Jリーグベストイレブン:1回 (2006年)
- JリーグオールスターサッカーMVP:1回 (2005年)
- AFCチャンピオンズリーグ得点王:1回 (2006年)
- カタール・スターズリーグ得点王:1回 (2008-09)
その他
- 大分市栄誉市民賞 (2005年)
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出典
関連項目
外部リンク
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