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マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1858-1929)

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マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1858-1929)
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マリア・クリスティーナ・デジレ・ヘンリエッテ・フェリツィタス・ライニエラ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンMaria Christina Desiree Henriette Felicitas Rainiera von Habsburg-Lothringen, 1858年7月21日 - 1929年2月6日)は、スペイン国王アルフォンソ12世の2度目の王妃。スペイン語名はマリア・クリスティーナ・デ・アブスブルゴ=ロレーナMaría Cristina de Habsburgo-Lorena)またはマリア・クリスティーナ・デ・アウストリアMaría Cristina de Austria)。

概要 マリア・クリスティーナ・デ・アブスブルゴ=ロレーナ María Cristina de Habsburgo-Lorena, 在位 ...
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生涯

オーストリア大公カール・フェルディナント(父はレオポルト2世の三男テシェン公カール)とその妻であるオーストリア大公女エリーザベト・フランツィスカ(父はレオポルト2世の八男ヨーゼフ大公)の娘として、モラヴィアで生まれた[1]。異父姉にバイエルン国王ルートヴィヒ3世の王妃マリア・テレジアがいる。

1879年11月、アルフォンソとマドリードで結婚し[2]、1男2女を儲けるが、長女メルセデスと次女テレサはマリアより先に死去している。いずれも出産直後に死去しているため、産褥熱と推測される(メルセデスは末子イザベラを出産後に急死した)。

1885年にアルフォンソ12世が病死したとき、マリアは第3子を妊娠中だった。生まれた子が女児の場合は、王位につくのは長女メルセデス、男児の場合はその誕生とともに即位することに決められた。結果、生まれたのは男児だったため、アルフォンソ13世としてただちに即位し、成人するまでの間マリアが幼王の摂政をつとめた。

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子女

マリア・クリスティーナを描いた肖像画

脚注

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