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リチャード・ロング (俳優)

アメリカ合衆国の俳優 (1927-1974) ウィキペディアから

リチャード・ロング (俳優)
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リチャード・マッコード・ロング(Richard McCord Long、1927年12月17日 - 1974年12月21日)は、アメリカ合衆国俳優ABCの3つの連続テレビドラマ『バークレー牧場』、『ぼくらのナニー英語版』、『バーボン・ストリート』の主役として最も知られている[1][2]。また、1961年から1962年にかけてABCの『サンセット77』にレギュラー出演した[3]

概要 リチャード・ロング Richard Long, 生年月日 ...
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来歴

要約
視点

初期の映画: インターナショナル・ピクチャーズ

1946年、銀幕デビュー作となる『離愁英語版』にキャスティングされ、クローデット・コルベールオーソン・ウェルズが演じた夫妻の息子ドリュー役で出演した。配役が何ヶ月も決まらず難航していたが、プロデューサーは最も適役と思われるロングを選択した[4]。映画は彼を契約下に置いたインターナショナル・ピクチャーズ英語版によって制作された[5]

ロングに感銘を受けたウェルズは、ロレッタ・ヤングの弟役として、インターナショナルの『オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー英語版』(1946年)に起用した[6]

インターナショナルは20世紀フォックスにロングを貸し出して『Margie』(1946年)を撮ろうとしたが、方針を変えロバート・シオドマク監督、オリヴィア・デ・ハヴィランドトーマス・ミッチェル主演の『暗い鏡』(1946年)に出演させた[7]

トム・ケトルとユニバーサル・スタジオ

インターナショナル・ピクチャーズはユニバーサル・ピクチャーズと合併し、ロングの契約はそのまま引き継がれた。4本目の映画となる『卵と私』でパーシー・キルブライド英語版マージョリー・メインが演じたケトル夫妻の長男トム・ケトルを演じた。映画は大ヒットし『ダイナマイト夫婦英語版』を始めとする、ケトル夫妻を主演に据えたスピンオフシリーズが生み出された。

ロングはユニバーサルと契約を結び、『愛と血の大地』(1948年)と『裏切りの街角』(1949年)に出演し、後者ではバート・ランカスターの弟シオドマック役を演じた。また、NBCのラジオ番組に基づく『泣き笑い人生英語版』(1949年)でウィリアム・ベンディックス英語版をサポートした。

『ダイナマイト夫婦』(1949年)でトム・ケトル役を再び演じ、興行的にも堅実な成績を収めた。続く『Ma and Pa Kettle Go to Town』(1950年)も同様であった[8]。西部劇映画『命知らずの男』(1950年)ではフランク・ジェームズ英語版を演じた。

1950年12月、朝鮮戦争中にアメリカ陸軍に徴兵された[9]。休職する前に『Air Cadet』(1951年) に出演、その後カリフォルニア州フォート・オード英語版に2年間勤務した[10]

Ma and Pa Kettle Back on the Farm』(1952年)は、ロングの4作目にして最後のケトル映画となった。『Back at the Front』(1952年、少年役)、『わたしの願い英語版』(1953年)、『All American』(1953年、トニー・カーティス演じるヒーローの敵役)、『サスカチワンの狼火』(1954年)、『Playgirl』(1954年)でも脇役を務めた。

ロングは『Lux Video Theatre』(エピソード「I'll Never Love Again」)などのテレビ番組にゲスト出演をするようになっていった。最後にユニバーサルから『Cult of the Cobra』(1955年)で主役の座を与えられたが、宣伝の中心となっていたのはフェイス・ドマーグであった。

テレビ

その後数年間はテレビに傾注し、『Climax!』、『Screen Directors Playhouse』、『TV Reader's Digest』、『The United States Steel Hour』、『Hey, Jeannie!』、『Schlitz Playhouse of Stars』、『Suspicion』、『Alcoa Theatre』、『幌馬車隊英語版』、『西部のパラディン英語版』、『百万弗貰ったら英語版』、『NBC Matinee Theater』、『トワイライト・ゾーン』、『エラリー・クイーン英語版』などの番組にゲスト出演している。

コロンビアでは、西部劇『拳銃峠英語版』(1956年)とブレイク・エドワーズのコメディ『He Laughed Last』(1956年)で助演を務めた。

ロングは『Tokyo After Dark』(1959年)に主演するために来日し、ウィリアム・キャッスルの『地獄へつゞく部屋』(1959年)では主要な役を演じた[11]

バーボン・ストリート

ロングはワーナー・ブラザースと契約を結び、『連邦保安官英語版』など多くのテレビ番組にゲスト出演した。

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マーベリック』(1959年)にて、バート・マーベリック役のジャック・ケリー英語版

1958年から開始したABC・WBの西部劇連続ドラマ『マーベリック』でジェントルマン・ジャック・ダービー役を4つのエピソードに亘り繰り返し演じ、その中には印象的であった回「Shady Deal at Sunny Acres」も含まれている[12]。このキャラクターはジェームズ・ガーナーとケリーの両方が主演した「Shady Deal at Sunny Acres」を含め、常にバート・マーベリック役のジャック・ケリー英語版と共演した。一方で後のシリーズレギュラーであるロジャー・ムーアとは共演することが無かった。ジェントルマン・ジャック・ダービーは、エフレム・ジンバリスト・ジュニアが自身の主演ドラマ『サンセット77』に移った後、彼が演じていた「ダンディ・ジム・バクレイ」の代役としてマーベリックのプロデューサーであるロイ・ハギンズ英語版によって作られた。

ワーナー・ブラザースはロングを『バーボン・ストリート』(1959年-1960年)に主演の私立探偵レックス・ランドルフ役で起用したが、この番組は39話のみの放送であった[13]アンドリュー・ダガン[12]ヴァン・ウィリアムズアーリーン・ハウエルと共演[14][15]

サンセット77

ロングは『ハワイアン・アイ』で再びレックス・ランドルフ役でゲスト出演し、続いてレックス・ランドルフとして『サンセット77』に1960年から1962年までレギュラーとしてキャストに加わった[16]

その後も引き続き『Thriller』、『拳銃街道英語版』、『ヒッチコック劇場』、『トワイライト・ゾーン』(「自分を探す男」)などの番組にゲスト出演した。

コニー・フランシスポーラ・プレンティスロジャー・ペリー英語版と共演したMGMのロマンティック・ミュージカル『渚のデイト英語版』で映画界に復帰[4]。また『ディズニーランド』の「The Tenderfoot」(1964年)の回に出演。

1963年、ABCの『ゴーイング・マイ・ウェイ』のエピソード「Hear No Evil」にゲスト出演。このドラマシリーズは1944年のビング・クロスビー主演映画を下敷にし、ジーン・ケリー演じるニューヨークのカトリック神父を描いている。同年、CBSの『ヒッチコック劇場』のエピソード「Blood Bargain」でエディ・ブリーチ役にキャスティングされた。

ロングは映画『Make Like a Thief』(1965年) 撮影のためにフィンランドへ行き、演出も手助けした。「ハリウッドの歴史の中で、最も長く気まずい時期を過ごした」と彼は当時を振り返った。「私は業界の誰よりも多くサインをしました。彼らは私をロバート・グーレギグ・ヤングロバート・スターリング英語版、あるいは私自身の誰かだと思っています。私たちは並んでいると似ているわけではありませんが、似ている瞬間があるのです。[17]」ロングは更にもっと多くの役を演じたいとも語った。「私は内面から堕落していて、それが顔に出ている。」と言い、「男は40代にならないとスクリーン上での魅力が出ない。」と締め括った[17]

バークレー牧場

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『バークレー牧場』の共演者たちと

1965年、38歳となったロングはフォー・スター・テレビジョン英語版による西部劇ドラマの掉尾を飾る『バークレー牧場』全112話で、牧場主ビクトリア・バークレー(バーバラ・スタンウィック)の長男で弁護士のジャロッド・バークレー役に就いた。1965年から1969年までABCで放送されたこのシリーズは、1870年代に時代設定がなされていた。ロングは『バークレー牧場』の2つのエピソードで監督も務めた[18][19]。(ロングは1953年の映画『わたしの願い英語版』でスタンウィックと共演していた[12]。)

ぼくらのナニー

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『ぼくらのナニー』共演者たちと

1970年から1971年まで、ロングはジュリエット・ミルズと共にABCのホームコメディ『ぼくらのナニー英語版』の主演を務めた[20]

ロングとミルズは後にこの番組の2本のアニメーション映画版、『Nanny and the Professor』(1972年)と『Nanny and the Professor and the Phantom of the Circus』(1973年)で声優を担当した。

Thicker than Water

1973年、短命に終わったシットコムThicker than Water』でジュリー・ハリスと共演した。

最後の出演は、テレビ映画『恋のプレゼント英語版』(1974年)と『死の航海英語版』(1974年)であった。

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私生活

朝鮮戦争中は2年間アメリカ陸軍に勤務し[21]、俳優のマーティン・ミルナーデビッド・ジャンセンクリント・イーストウッドらとともにカリフォルニア州フォート・オード英語版に配属された[22]。一時期、日本の東京にも駐在していた[21]

ロングは2度結婚している。最初の妻である歌手・女優のスーザン・ボール英語版とは1954年4月11日に結婚したが、14カ月後に癌のため21歳で亡くなった[23][24][25][26]。2人は1953年、彼女がガンと診断された後に出会った。彼女の右足は1954年初めに切断され、2人は同年4月に結婚した。

1957年、ラスベガスで女優・モデルのマーラ・コーディ英語版と結婚した[27]。夫妻は結婚生活に問題を抱えながらも、キャリー(1957年-2008年)、ヴァレリー(1958年生誕)、グレゴリー(1960年生誕)という3人の子供をもうけた[28][29][30]。1961年、ロングは酔った勢いで暴力をふるったとしてコーディに訴えられ警察に逮捕された[31]。ロングの義理の兄で俳優のマーシャル・トンプソン英語版が保釈金を支払い、コーディは起訴を取り下げた。コーディは当初離婚を申請するつもりであると仄めかしていたが、後にロングと和解した[32]

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死去

ロングは若い頃に肺炎を患い、明らかに心臓が弱っていた。その後、成人してからも心臓のトラブルを経験し、1961年に最初の心臓発作を起こした[33]。最後は、再度の発作を治療するためにロサンゼルスのターザナ英語版医療センターに1カ月間入院した後、47歳の誕生日の4日後の1974年12月21日に亡くなった[1][2]

出演作品

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脚注

外部リンク

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