トップQs
タイムライン
チャット
視点

ルイ・フィギエ

ウィキペディアから

ルイ・フィギエ
Remove ads

ルイ・フィギエ (Louis Figuier1819年2月15日 - 1894年11月8日) は、フランス医学者薬剤師化学者サイエンスライター

概要 ルイ・フィギエLouis Figuier, 誕生 ...

彼は始めに化学者を志したが挫折し、のちに啓蒙的な通俗科学著作家として一般大衆の人気を得た。

概要

ルイ・フィギエは19世紀のフランスにおける最も有名なポピュラーサイエンスライターであり、彼が1848年から1894年までに発表した科学記事は質量ともに傑出した存在であった。彼は薬学化学物理学を修めたが、有望と思われた化学者としてのキャリアは1854年クロード・ベルナールとの対決をもって断たれ、以後は一般大衆への科学の普及に努め、果たせなかった夢を自身が考案した科学の劇場に託した[1][2]。また、ジュール・ヴェルヌなどの同時代の大衆文学の小説家にも影響を与えた。

化学者として

ギヨーム・ルイ・フィギエ(本名:Guillaume Louis Figuier)は1819年2月15日にモンペリエの化学者の家庭に生まれた。父親のジャン・フィギエはモンペリエの薬剤師であり、叔父のピエール=オスカル・フィギエは焼け焦げた骨の変色反応を発見した人物であった。ルイは薬学を修め、1841年に医学博士の称号を取得した[3]1844年にはアントワーヌ・バラールが所長を務める、ソルボンヌの科学研究所に入所[2]1846年モンペリエ大学薬学部助教授に任命され、臭素に関する化学研究論文と、印象的な物体に対する光の作用に関する物理学の研究論文を発表した。その後、パリ大学の薬学部で学び、1853年には同大学で化学を教えた[4]。そこでは糖の自発的な存在を否定するクロード・ベルナールの説に対して、肝臓の役割は血液に存在する糖を凝縮することであるとする自説を証明するために、一連の生理学的な実験を行った[2]。この化学をめぐる闘争はフィギエの敗北に終わり、彼はフランソワ・アラゴの助言に従って化学者のキャリアを断念し[2]、すでに前年から始めていた科学の普及活動に専念することにした。

Remove ads

科学の啓蒙家として

Thumb
「ルイ・フィギエの肖像」
(E・L・カテナッチ画)

彼の名前は1847年から1854年にかけて雑誌 "Annales des sciences" や "Journal de pharmacie" に発表していた数多くの回想録や「両世界評論」、「ラ・ルビュー・スィエンティフィーク」に寄稿していた記事によって科学者たちに知られており、彼はサイエンスライターヴィクトル・ムニエを新聞「ラ・プレッセ」の大衆向け科学記事の編集者に任命した。これは1878年まで毎週掲載され、1856年からはこれを編纂した年次版「科学と産業の年次報告書」を自身の死まで毎年刊行した、このフランスにおける科学の精確な年間目録は大きな成功を収め、同分野の刊行物に影響を与えた。

Thumb
「大洪水以前の地球」挿画 (E・リウー画)

ルイ・フィギエは人気サイエンスライターとなり、以後歴史や科学に関する多数の著書を出版した[5]。代表的なものには、"La Vie des savants illustres"(図解:科学者の生活)、"La Terre avant le déluge"(大洪水以前の地球)、"Tableau de la nature"(自然のタブロー)、"Les Merveilles de la science"(科学の驚異)、"Les Mystères de la science"(科学の謎)、"Les Merveilles de l’industrie"(産業の驚異)などがある。

1857年5月、彼はジャン=オーギュスティン・バラルアンリ・ルキュリエフランソワ・フェリックス・ルーボーらと科学出版サークルを設立した[2]。 さらに、アドルフ・ビタールが設立し、小説家のジュール・ヴェルヌルイ・アンリ・ブセナールも寄稿した人気科学週刊誌、「ラ・スィヤーンス・イリュストレ」でカミーユ・フラマリオンとともに編集長を務めた[3]。フィギエの著書は(ヴェルヌほどではなかったにせよ)成功を収め、批評家やエミール・ゾラなどの作家たちからも熱狂的に支持された[6]。彼は1870年から1880年にかけて、フランスにおける科学の優れた啓蒙家となった[7]

晩年

Thumb
ルイ・フィギエの墓
ペール・ラシェーズ墓地

彼の妻で小説家・劇作家ジュリエット・フィギエ[2]、「両世界評論」にラングドックを舞台とする小説などを発表した。フィギエ夫妻はあらたな試みとして、科学者や発明家を英雄として上演する演劇活動「科学劇場」に着手した。これは演劇を有益なものとして再生し、道徳と進歩の道具とすることを目標に掲げたが[8]、この試みは失敗し、彼は多くの厳しい批判を浴びた。

フィギエは最晩年に「死後の日」などの死後の世界についての哲学科学的な本をいくつか出版した。彼は1894年11月8日にパリで世を去り、妻や子供とともにペール・ラシェーズ墓地の67区に埋葬された[9]

なお、彼の妻であるルイーズ・ジュリエット・ブーシャレン(Louise Juliette Bouscaren、1827-1879)はモンペリエの地主の家に生まれ、1848年10月23日にフィギエと結婚した。彼女は自身の文学活動を通じて夫の科学的知識を一般大衆に普及させた[10][11]。なお、二人の間には息子のジョルジュ(1849-1867)がいる。


Remove ads

著書

専門科学書

通俗科学書

Remove ads

評伝、研究書

  • 槙野, 佳奈子「科学普及活動家ルイ・フィギエと死後の魂をめぐる問題」『科学史研究』第59巻第294号、2021年、99-112頁、doi:10.34336/jhsj.59.294_99ISSN 2188-7535
  • 槙野, 佳奈子『科学普及活動家ルイ・フィギエ:―万人のための科学、夢想としての科学』水声社、2023年。ISBN 978-4-8010-0710-9 NCID BD00980196

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads