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一柳頼邦

江戸時代中期の大名 ウィキペディアから

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一柳 頼邦(ひとつやなぎ よりくに)は、江戸時代中期の大名伊予国小松藩4代藩主。

概要 凡例一柳頼邦, 時代 ...

生涯

元禄8年(1695年)12月8日、小松藩主一族である一柳治良(第2代藩主一柳直治の次男)の長男として、小松で生まれる[2]

直治から家督を譲られて第3代藩主となったのは伯父の頼徳(直治の長男)であった。男子のなかった頼徳ははじめ自身の弟である直堅(直治の三男)を養嗣子としていたが、直堅は頼徳が藩主となる直前の宝永2年(1705年)に早世している。正徳4年(1714年)9月、頼邦は伯父である頼徳の養嗣子となり[2]、同年10月には将軍徳川家継への初謁を果たしている[2]享保9年(1724年)、頼徳の死去により跡を継ぎ[2]、同年12月従五位下兵部少輔に叙任した[2]

頼邦の治世において、小松藩は享保の大飢饉による甚大な被害を受けた。享保17年(1732年)には「飢人」が住民の4割を超え[3]、藩はその救済に追われた。この飢饉では、隣藩の松山藩が多くの餓死者を出したのに対し、小松藩領内での餓死者は皆無であった[3]。小松藩の「会所日記」を解説した増川宏一は、小藩であるがゆえに領内の不作の兆候の把握が早く、対策が立てられたこと、また日頃からの備蓄米が功を奏したことによるものと評している[3]

延享元年(1744年)7月8日、江戸で死去。享年50。跡を三男・頼寿が継いだ。

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系譜

  • 父:一柳治良
  • 母:門川氏
  • 養父:一柳頼徳(1666-1724)
  • 室:玉林院
  • 生母不明の子女
    • 四男:一柳邦常
    • 五男:一柳直義
    • 女子:杉浦正知正室
    • 女子:喜多川久喬

脚注

参考文献

外部リンク

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