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三州義塾
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三州義塾(さんしゅうぎじゅく)は、明治期、鹿児島県に存在した私立の中等教育機関。私学校の後継校で、当初は教育令下の中学校であり、その後も尋常中学と同等の教育課程を有していたが、後に海軍軍人を目指す子弟への教育に特化した私塾に転じた。
概要
西南戦争に敗北した私学校派の残党により、樺山資美、河野主一郎を中心として1881年(明治14年)に政治結社の三州社が結成された[1]。その三州社によって、1882年(明治15年)4月三州義塾が開校される[2]。三州義塾は、故西郷隆盛の私学校の後継校と位置付けられ、河野主一郎を塾長とした[2]。三州義塾は設立当初教育令下の中学校であり、1882年当時の私立中学校では全国で唯一、200名以上の在籍生徒数を有していた[3]。鹿児島市の城山の麓に所在して、1886年(明治19年)の第一次中学校令以降も尋常中学と同等の課程を教授していた[4]。1899年(明治32年)に中等教育機関としては廃止となるが[3]、1900年(明治33年)1月、上村彦之丞、伊地知彦次郎らにより海軍奨学会が設立され、鹿児島での海軍志望子弟の教育が三州義塾に委託される[5]。1901年(明治34年)2月からは、三州義塾での海軍奨学会入学志願者寄宿を受け入れる[5]。1908年(明治41年)より、三州義塾の舎生の中から優秀なものを東京へ遊学させるようになるが、1910年(明治43年)に三州社の事情によって寄宿舎閉鎖となった[5]。1919年(大正8年)8月に、三州社総代河野主一郎ほか1名から財団法人鹿児島造士会に資金の寄付があり、三州義塾事業は事実上鹿児島造士会に合流された[5]。
なお、三州義塾開校の前年、1881年(明治14年)9月に西郷隆盛の叔父椎原国幹を校長として公立鹿児島学校が設立されていたが、三州社と対立していた郷友会により、三州義塾に対抗してこの鹿児島学校が郷友会の勢力拡大に利用された[1]。公立鹿児島学校は県立鹿児島中学と合併して1884年(明治17年)に中学造士館となった[1]。
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著名な出身者
脚注
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