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三浦義意

日本の戦国時代の武将、相模三浦氏の最後の当主 ウィキペディアから

三浦義意
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三浦 義意(みうら よしおき[1])は、戦国時代武将相模三浦氏最後の当主。通称は荒次郎。官途名弾正少弼

概要 凡例三浦 義意, 時代 ...

略歴

三浦義同の嫡男として誕生。室に真里谷信勝の娘・真里谷恕鑑の妹(異説有)。

父から相模国三崎城新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ、永正7年(1510年)頃、家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏上杉朝良に従って北条早雲と戦うが、永正10年(1513年)頃には岡崎城(現在の伊勢原市)・住吉城(現在の逗子市)を後北条氏によって奪われて三浦半島に押し込められた。

父と共に新井城に籠って3年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に新井城は落城、父・義同の切腹を見届けた後に敵中に突撃して荒木彦次郎によって討ち取られたと言う。これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定がほぼ完了する事になる。

最期

三浦浄心北条五代記[2]には、背丈は75(227センチ)と伝え、最期の合戦で身につけた甲冑は鉄の厚さが2分(6センチ)、白樫の丸太を12寸(364センチ)に筒切りにしたものを八角に削り、それに節金を通した棒(金砕棒)をもって戦い、逃げる者を追い詰めて兜の頭上を打つとみぢんに砕けて胴に達し、横に払うと一振りで5人、10人が押し潰され、棒に当たって死んだものは500余名になった。敵が居なくなると、自ら首をかき切って死んだ、と記されている。『北条五代記』より前に成立したと推測されている『北条記[3]にはそのような記述はなく、永正15年(1518年)7月11日に父・義同や家臣たちと共に討死した、と記されている。

辞世の句は「君が代は、千代に八千代も、よしやただ。うつつのうちの、夢のたはぶれ」(永く栄えるのは結構だが、この世は夢か現か、戯れにすぎぬ)[4]

ギャラリー

脚注

関連史料・参考文献

関連項目

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