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三輪敬司
日本の野球選手 (1976-) ウィキペディアから
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三輪 敬司(みわ けいじ、1976年7月26日 - )は、愛知県幡豆郡一色町(現:西尾市)出身の元プロ野球選手(捕手)。
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経歴
一色西部小学校、一色中学校出身[1]。小学生時代は地元のソフトボールクラブ、中学生時代は地元中学校の野球部で活躍。
愛工大名電高校では春の県大会、東海大会で優勝を経験した。1994年11月18日に開催されたプロ野球ドラフト会議では、入団希望球団であった中日ドラゴンズから5位で指名され[2]、同月30日に契約金4000万円、1995年シーズンの年俸480万円という契約条件で入団に合意した[3]。本人は高校の先輩であるイチローや、西武ライオンズの正捕手として活躍していた伊東勤のような選手として、12球団で最強の打線と評されていた中日打線に名を連ねることを夢見ていた[4]。
しかし1年目の1995年は二軍(ウエスタン・リーグ)でも20試合出場、19打数4安打、打率.211、1打点の成績にとどまる[5]。2年目の1996年も22試合に出場して30打数5安打、1打点、打率.167の成績だった[6]。1997年までは二軍戦でも出場機会は少なかったが、秋季キャンプごろからは打撃面で急成長を見せ、首脳陣から高い評価を得ていた[7]。しかし一軍出場は果たせず、2001年10月19日までに球団から戦力外通告を受け、現役を引退[8]、ブルペン捕手に転向した[9]。2004年からは、同じ西尾市出身で2学年上の岩瀬仁紀のブルペン捕手を務めた[10]。岩瀬からパートナーに指名されたことがきっかけであり、それ以来彼を引退まで専属ブルペン捕手として支えていた[11]。岩瀬が引退した後の2024年時点では一軍ブルペン捕手としては最年長であり、祖父江大輔や田島慎二、外国人投手ら救援陣を中心に担当していた[9]。
2005年9月27日の横浜ベイスターズ戦で井端弘和が、2009年5月31日のソフトバンク戦でトニ・ブランコが、2010年3月7日の対オリックス・バファローズオープン戦で高橋聡文が、2025年5月13日の東京ヤクルトスワローズ戦で田中幹也が、ユニフォームを忘れたため、三輪のユニフォームを着て試合に出場した[12]。また試合に出場はしなかったが、2016年7月5日の広島東洋カープ戦では藤井淳志がユニフォームを忘れたため、三輪のユニフォームを着てベンチ入りしていた。
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選手としての特徴
ドラフト指名を受けた時点で100メートル走のタイムは11秒5、遠投は110メートルと俊足、強肩が持ち味であった[2]。また打撃面でも、高校2年生だった1993年秋からドラフト指名を受けるまでの1年間で23本塁打を放っていた[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
- 67 (1995年 - 2001年)
- 121 (2002年 - 2003年)
- 98 (2004年 - 2008年)
- 96 (2009年 - 2014年)
- 111 (2015年 - )
脚注
関連項目
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