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強竜打線

中日ドラゴンズの打線の愛称 ウィキペディアから

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強竜打線(きょうりゅうだせん)は、中日ドラゴンズ打線を指す愛称である。

概要

別名「恐竜打線」。1996年までナゴヤ球場(改修前)を一軍ホームグラウンドにしていた時期の中日は、狭い球場を生かした打力が売り物のチームだった。しかし、1997年ナゴヤドームへと移転してからはチームが不振に陥り、星野仙一監督(当時)の方針のもと、一転して投手を中心とした守備重視のチームへと切り替え、現在に至る。

布陣

要約
視点

定義が曖昧なため、優勝した年を中心に述べる。

1974年(監督・与那嶺要)

与那嶺要監督のもと、巨人のV10を阻止して1954年以来20年ぶりに優勝した年。突出したスター選手はいないが、僅差ながら総合力で巨人・阪神を上回った。ロッテとの対戦となった日本シリーズでは星野仙一が救援失敗を重ね、さらに打撃好調だった高木守が骨折で戦列を離脱したのが響き2勝4敗で敗退した。なお、応援歌「燃えよドラゴンズ!」が初めて発売された年でもある。シーズンMVPは2年連続で三冠王に輝いた王貞治(巨人)が選ばれた。

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1982年(監督・近藤貞雄)

近藤貞雄監督を中心として「野武士軍団」といわれる個性豊かな選手たちの活躍により、またも巨人とのマッチレースを制し8年ぶりの優勝。しかし、西武ライオンズとの日本シリーズでは投打共に不振に加え「石コロ事件」の不運も重なり敗退した。

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1984年(監督・山内一弘)

この年就任した山内一弘監督のもと、強力な打線を構築した。4人が30本塁打以上を記録した他、中日ドラゴンズとしての球団記録であるOPS.807を記録している。巨人戦では14連勝を記録するなど、前半戦は首位に立っていた。しかし、広島戦を苦手としていたことや中尾の離脱もあり、シーズン2位に終わる。

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1988年(監督・星野仙一)

星野体制2年目の本シーズンは当初最下位予想がなされ、実際4月を6位で終わるものの、夏場から破竹の快進撃で広島東洋カープとの最大8ゲーム差を逆転して優勝(当時のセリーグ新記録)。逆転やサヨナラ勝ちが多く、サヨナラ勝ちは11回を数えた。ルーキーだった立浪和義が2番としてフル稼働した。投手陣では移籍1年目の小野和幸が18勝で最多勝を獲得。日本シリーズでは前回の1982年と同様、西武に敗れた。シーズンMVPはリリーフエース郭源治が選ばれた。

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1994年(監督・高木守道)

オフに落合博満FAで巨人に移籍してしまった事も含め、チームが不調だったため、高木守道監督の進退が問われたシーズン。前半は巨人に独走を許すが後半に巨人が失速し中日が猛追、10月8日の同率首位最終戦の決戦に持ち込んだ。 

1996年(監督・星野仙一)

ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年は星野仙一が監督に復帰し、チームの立て直しを図った。特に6番を山崎武司、7番を大豊泰昭と固定してホームランを量産、この2人と巨人・松井秀喜の3人による熾烈な本塁打王争いが繰り広げられた。この様は「陰のクリーンナップ」と言われ、他球団から恐れられた。なお、「強竜打線」はこの年の様子を形容したことが発端とされている。

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1997年(監督・星野仙一)

前年から一転、ナゴヤドーム開場のこの年は新外国人レオ・ゴメス以外の主軸の不振、更にはナゴヤドームでの戦い方(主に外野陣の守備)に慣れず、最下位に終わる。

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1999年(監督・星野仙一)

前年に阪神からトレードで獲得した関川浩一が開花し、韓国人選手の李鍾範とともにリードオフマンとして抜群の働きをするなど、前年の補強の成果が明瞭にあらわれた。4番ゴメス・5番立浪・6番山崎の強打者に加え、7番井上が開幕21試合連続安打を達成するなど好調。さらに、ドラフトで福留孝介が入団してレギュラーに定着した。しかし、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは、主砲の山崎がリーグ優勝を決めた9月30日に負傷離脱、関川は第四戦まで無安打で21打数2安打、井上は13打数0安打、福留の守備ミス等が重なり、前評判では、中日圧倒的優位だったが[1]、1勝4敗で敗退。シーズンMVPはエース野口茂樹が選ばれた。

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2004年(監督・落合博満)

この年就任した落合博満監督は「守りの野球」を掲げ、セリーグ最小失策数となる45失策を作った。また、投手陣ではエースの川上憲伸の復活、落合英二岩瀬仁紀らリリーフ陣の尽力もあり、5年ぶりのリーグ優勝を遂げた。また、「守りの野球」らしく、守備の名手がそろっており、ゴールデングラブ賞を5部門にわたって受賞した(荒木・井端・アレックス・英智・渡邉・川上)。しかし、日本シリーズではまたも西武に敗れた。シーズンMVPはエース川上憲伸が選ばれた。

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2006年(監督・落合博満)

守備攻撃ともにかみ合い、途中から首位を独走して優勝。この年の打撃三部門のタイトル(首位打者最多本塁打最多打点)はウッズ、福留と中日に在籍する2人で独占された。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに敗れた。7月に入ると立浪に代わり、森野がサードのレギュラーに起用された。シーズンMVPは福留孝介が選出された。

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2007年(監督・落合博満)

この年のペナントレースは2位に終わるも、この年から開始されたクライマックスシリーズで巨人に勝利し、日本シリーズでも日本ハムを破り53年ぶりの日本一を果たす。終盤は福留が離脱しながらも中村紀が奮起して日本シリーズMVPを獲得する活躍をした。シーズンMVPはリーグ優勝チームの小笠原道大(巨人)。

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2010年(監督・落合博満)

井端の途中離脱・新外国人のディオニス・セサルや主砲のトニ・ブランコの不調など、貧打に苦しみ、リリーフ投手陣に助けられて球団最多となる12回のサヨナラ勝ちを記録しつつ優勝。森野・和田が打線を牽引し続け、若手の堂上兄弟・岩﨑達郎大島洋平らが台頭した。シーズンMVPは和田一浩

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2011年(監督・落合博満)

この年から導入された統一球の影響で森野・和田をはじめとする打撃陣が絶不調に陥り、打線もシーズン終盤まで固定できず12球団ワーストのチーム打率・総得点を記録した年。一時前半戦から首位を独走したヤクルトと10ゲーム差以上をつけられたものの、吉見一起浅尾拓也ら投手陣の奮起と夏場以降離脱していた谷繁・井端・ブランコが復帰、打線が固定され少ないチャンスを生かして確実に点を取ることができるようになったことで、落合の突然の退任発表もありながら大逆転で球団史上初の連覇を決めた。シーズンMVPはリリーフエースの浅尾拓也が選ばれた(ゴールデングラブ賞もリリーフ投手として初受賞)。日本シリーズではソフトバンクに3勝4敗で敗退。

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関連項目

脚注

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